東洋哲学研究会

2017.06.11

『中庸』第一章

論語勉強会議事録

開催日時:2017年6月11日(日)15:56~18:13 

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『中庸章句序』及び『中庸』第一章を学びました。

テキスト『大学・中庸』金谷治 訳注


概要

後半は、『中庸』第一章について議論しました。第一章は、『中庸』全体の総論という位置づけです。『大学』で説かれた「慎独」(なぜ君子は独りを慎むのか)がここで説き明かされます。第一章を一つずつ読み解いていきます。

「天の命ずるをこれ性と謂い、性に したが うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。」

人には、「天」すなわち宇宙の主宰者、天地万物創造の神の命により、生れつき具わっているものがあり、それを「性」といいます。その性に従うものを「道」といいます。人には天命により生れつき具わった「性」がありますが、その行ないが「道」と一致しないことがあるため、「教え」によって「道」を修める必要があります。

『大学』では、人は「意を誠にする」ことで本能的に善と不善とを感じ分けられると説かれていました。なんとなれば、人には、天命によって先天的に「性」が具わっているからです。しかし、聖人でない限り、その「性」は明らかとなっていません。それ故、切磋琢磨の詩に描かれているように、君子はひたすらに道徳を学び修養を重ね、自らに具わった明徳を明らかにしようと努めます。

「道は 須臾 しゅゆ はな からざるなり。離るべきは道に非ざるなり。 」

「道」は、ほんのひと時でも離れることがないものです。また、離られるものは「道」ではありません。つまり、「道」とは森羅万象ことごとくを貫き、極微なるものに及び、網羅されるものであると感じられます。

の故に君子その ざる所を 戒慎 かいしん し、その聞かざる所を 恐懼 きょうく す。隠れたるより あらは るるは く、 かす かなるより あらわ なるは莫し、是の故に君子その独りを慎むなり。」

そのため、君子は自分が見ることのないものにも常に我が身を戒め慎み、聞こえないものにも常に恐懼します。なぜならば、隠れているものであっても現れないことはなく、微かなものであっても顕われないものはないからです。それ故、君子はその独りを慎しみます。

『大学』で、曽子様が「十目の視る所、十手の指さす所、其れ厳なるかな」と言って、常に戦々兢々として身を慎まれていたことが思い浮かびます。修行不足の凡夫には思いも寄らないことが、「道」に反することとなるのが伺えます。意を誠にし、独りを慎しみ、常に戒慎恐懼する者でなければ、わからないものと想像されます。

「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂ふ。発して皆な節に あた る、これを と謂う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。 中和 ちゅうか を致して、天地 くらい し、万物育す。」

「喜・怒・哀・楽の感情が動き出す前の平静な状態」を「中」といい、「感情が動き出したが、それらがみな然るべき節度にぴたりとかなっている状態」を「和」といいます。「中」こそが、「世界じゅうの万事万物の偉大な根本」であり、「和」こそが「世界じゅういつでもどこでも通用する道」です。「中と和とを実行しておしきわめれば、人間世界だけでなく、天地宇宙のあり方も正しい状態に落ち着き、あらゆるものが健全な生育をとげることになる」(金谷氏)と説かれます。

つまり、喜怒哀楽の感情の偏り、過不足によって平静な状態が乱され、調和を失うことが説き明かされます。『大学』の「正心」「修身」で説かれていたことと符号する内容です。

春秋館で学んでいる自法は、まさにこの「和」の状態へ導くものといっていいかもしれません。自法を続けると本当の豊かな感情がでるようになると教わっています。

いまままで『大学』を通して、いかにして己を修めるかを見てきましたが、『中庸』を通してより根源的な視点から脩己・明明徳についてあらためて考えていきたいと思います。

議論

『中庸』第一章

天命之謂性、率性之謂道、修道之謂教。道也者、不可須阿臾離也。可離非道也。是故君子戒慎乎其所不睹、恐懼乎其所不聞。莫見乎隠、莫顕乎微、故君子慎其独也。

一.天の命ずるをこれ性と謂い、性に したが うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。 道は 須臾 しゅゆ はな からざるなり。離るべきは道に非ざるなり。

の故に君子その ざる所を 戒慎 かいしん し、その聞かざる所を 恐懼 きょうく す。隠れたるより あらは るるは く、 かす かなるより あらわ なるは莫し、是の故に君子その独りを慎むなり。

海輝 :「天が、その命令として人間や万物のそれぞれに割りつけて与えたものが、それぞれの本性である。」という大事なことが書いてあります。「道を治めととのえて誰にでも分かり易くしたのが、聖人の教えである。」とありますが、教えは文字面では易しく書いてあっても、実践は中々難しいものではないかと思いました。「故に、君子は内なる己自身を謹慎して修めるのである。」と思いました。普段なかなか気が付いていないけれど、道というのはいつでもどこでもあるもので、人から離れるものではないとあります。

備後:いきなり凄いところですが、「天の命ずるをこれ性と謂う」から始まる一章です。

耕大:ここは性と教と道の関係性を書いている。それぞれの繋がりというのがどういう概念で書かれているのは、言葉としては一応理解はできます。

備後:最後に大学であった独慎が出てきますね。『微かなるより顕れる莫し、故に君子はその独を慎しむなり』。微かなことも疎かに出来ず。曾子様でいう戦々恐々として薄氷を踏むが如く、一人の時であっても自らを省みながら過ごすというニュアンスでしょうか。

凪沙:そういう感じはします。どんな事でも隠し事はできない。天は見ているよという意味だと思います。

喜怒哀樂之未發、謂之中。發而皆中節、謂之和。中也者、天下之大本也。和也者、天下之達道也。致中和、天地位焉。萬物育焉。

二.喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂ふ。発して皆な節に あた る、これを と謂う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。 中和 ちゅうか を致して、 くらい し、万物育す。

希美 :喜怒哀楽の感情がまだ出ていない状態を中という。感情が出ても節度にあった状態のことを和という。中は世界の根本である。和というのは世界どこでも通用する道である。中和を極めれば天地が落ち着き、万物が健全に育成する。

備後:先ほどの道心が健全に機能している状態でしょうかね。

帆士:座禅をしているところかなあという感覚がある。和は自分の理解していないもの。これは喜怒哀楽を発しながら、と、喜怒哀楽の未発と既発の違いで説かれている。和の理解が未だ分かっていないことを意識した章。

希美:喜怒哀楽が出ても節度を保って和の状態というのはすごいことだと思いました。

帆士:金谷さんの説明だと、中ができれば和も理解できると。

小雪:喜怒哀楽があっても中の状態はあるのかと思っていた。ここでは喜怒哀楽が出る前の状態とある。春秋館で教わっている自法を続けると本当の豊かな感情がでるようになると伺っている。

備後:ここは、正しい心が本にある状態での感情なので、健全であると感じます。

小雪:自分は中も和も認識が間違っていたと思った。和は他との関係の中での調和のとれた状態かと思っていた。

秋実:和を読んだ時に、感情を発露するんだけど自分自身が引っ張られない状態が和なのかと。

備後:帆士さん、秋実さんが言っていた補足というか繰り返しになりますが、「正しい眼」について御教えいただきました。この正しい眼の状態では、感情が動いても正しい心、正しい状態で居られる。ここで言っている和のことかと。

耕大:中とは喜怒哀楽が出る前のもっと根本の部分であると。物事を私たちは好き嫌いなどで判断しているが、そうした好悪などの喜怒哀楽の感情の奥にある素直で素朴な心では。喜怒哀楽を出すことが悪ということではなく、中から生じる正しい喜怒哀楽もあるはず。

帆士:優れた人は物事を真直ぐ見て、それによって純粋な感情が出てくるということ?我々は感情や思考等が先に出ている。

佐龍:現状過ごしている中で、中の状態ってありうるのかなと。根本が中はありえると思うけれど、日常で中の状態でいるということが可能なのでしょうか?

秋実:平静な状態とあった。

帆士:我々は思考やら、その前にそういうものがあって、覆いかぶさっているから忘れているのですかね?それで未だ発せざるということを言っているのかと。

小鳥:佐龍さんの言っていることは肉体があって現実に生きている時に、中の状態がありうるのかということでしょうか?

帆士:もしかして、そういうもの(感情等の雑感)にどっぷりつかっているので、本当はそういうもの(中なる感覚)が先行されているものではないかと。

十舟:瞬間的にあると思う。感情がすぐに動き出すのでわからないけれど、中の状態は皆経験しているのでは?

帆士:それで、座禅などで自覚して修めていきましょうということになる?

耕大:中という根本は日常でもあって、気付かずに喜怒哀楽に支配されているけれど、出す前の根本には中が存在して宇宙の原理で繋がっているのかなと。

砂涼:中と和を両方極めたら宇宙をおさめるとあるので、瞑想状態のような中の静と同時に、感情の動も正しい動だったら、両方あるのが良いのかと思いました。陰と陽のような、静と動が必要なのかと思いました。

秋実:不健全な状態で感情を発露しているから、あらゆる争いが世の中で起きてくるととれる。内省し、和するというものが一人の中にあるのかと。一人ひとりが状態を保っていられれば、健全平和な世界に繋がるのかと。

佐龍:和というのは人心と道心がニュートラル状態で合わさったもの?

秋実:バランスでなく、同時にある。

十舟:合一。

秋実:そうそう。

十舟:融合するという感覚なのかな?

秋実:それを目指しなさいよと。

小雪:欲にまみれやすい人心も和の状態に保てば穢れず、道心も広がり、融合されて、向上していけるということでは?

備後:人心は良くない感情での定義ではありますが、道心さえしっかりしていれば、表面に出てくる、言ってみれば人心も良い方に近づいていくでしょうと。

十舟:「情」が人心で「理」が道心でしょうか。両方あってバランスがとれているというのか。バランスというとちょっと違うような気もするが。そこが「和する」ということにも繋がるのか。ちょっと強引に結び付けてもいますが納得がいった感があります。

謙二:道心はあり、それを覆う喜怒哀楽などの人心をうまく和することで理情のバランスが取れる。論語では「君子は和すれど同ぜず」とあったけれど、この和するも人との関係では大事なことであるかなと。平らな状態というか。

帆士:和は愛がある。中に通じるとかではなく、中と和を分けた表現になっているが、本来一つのものなのかな。

帆士:正しい情理をきわめるのが、つまり中和するということか。

小鳥:自分がやっていく上では難しいことだなと。理とか情も、和は誰とのバランスかということなども実際は複雑で難しいと思いました。

以上