東洋哲学研究会

2017.06.11

中庸章句序

論語勉強会議事録

2017年6月11日(日)15:56~18:13

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『中庸章句序』及び『中庸』第一章を学びました。

テキスト『中庸』 宇野哲人 全訳注


概要

今回から『中庸』を読み始めました。今回は前半の『中庸章句序』までの議論です。

『中庸』について

『中庸』は四書の一つで、『大学』と同様、もともと『礼記』の中の一篇でした。孔子様の孫・子思様の手になるものと伝えられています。『大学』が「初学の入徳の門」であるのに対して、『中庸』は学問の「本源、極致の処」を述べたもの、すなわち、「学び始めの大学、学び納めの中庸」と言われています。

『中庸』の内容は、身近な「中庸」の徳とそれを基礎づける「誠」を説くものとされています。全体の構成を三つに分けた場合、一番目が「天の命ずるを、これ性と謂う」で始まる第1章で、全体の総論となっています。二番目は、第二章から朱子章句による第二十章前半までで、孔子様のお話や尭・舜・禹の徳治政治等、儒家の実践的な教説を多く収録し、具体的実践的な各論となっています。そして三番目に、「誠」について説かれています。『大学』で、まず「意を誠にする」ことを学びましたが、『中庸』で、「誠」とは「最高絶対の徳目として、宇宙万物の存在にまでも影響を及ぼすその窮極的な根源性」(金谷治氏)であることが説き明かされ、「誠」の深遠なる根拠に触れることとなり、参加者は、期待に胸を膨らませて『中庸』に臨みました。

『中庸章句序』について

朱子は、『大学』と同様、『中庸』についても独自の解釈を施し、『中庸章句』となしています。その『章句序』は、聖王から脈々と伝えられてきた道統に対する朱子の切々たる思いが、子思様の使命に託して語られていると感じます。『論語』堯白第二十において、堯帝が舜帝へ、舜帝が禹帝へ位を譲られる時、「まことの中を執れ」と伝えたとされています。それに対して、朱子は、舜帝は、「人心れ危く道心惟れ微なり、惟れ精惟れ一、允に厥の中を執れ」と三言をもって、禹帝に伝えられたと言います。すなわち、私たちの心は、「肉体の影響を受けている人心」と「本来具有する道義の心」からなっていて、人の心は肉体の欲によって迷いやすく、そのために危うく、「本来具有する道義の心」は物欲に覆われて明らかにし難いため、微妙である。そのため、いずれが人心でいずれが道心か精密に考察してまじえないこと、本心の正を守って失わないことが説かれています。

「惟精」は、「いずれが人心でいずれが道心か精密に考察してまじえないこと」と解説されていますが、それがもし「考察」すなわち思考・理性に依拠するものであるならば、春秋館で教えていただいている自法は思考・理性のみに頼るものではないので、「惟れ精惟れ一」と同じものといえませんが、他方、何か通じるものがあるようにも感じました。

議論

備後:ではまず概要ということで、中庸とは、です。予習ノートにも紹介くださった語彙辞典の「中庸」の紹介から始めます。『書物としての中庸は四書五経のひとつ。大学と同じくもとは礼記の一篇で、著者は孔子の孫である子思とされる。宋の初めに出た程明道・程伊川の兄弟が独立させ、南宋の朱子が朝廷における官学に採用したことから重要な経典の一つとなった。誠を説き、天人合一の思想を展開し、学び始めの大学、学び納めの中庸といわれる。思想としての中庸は永遠不変の至徳である。中は長短どちらでもなく超越している状態であり、庸は永久不変のすべてに通じることを指す。故に中庸はすべてに通じて和し、限りなく向上発展を遂げる永遠たる道をいい、これを以て孔子は「中庸の徳たるや至れるかな」と述べている。老子における玄に近い。』とあります。
では、金谷さんの解説に沿って読んでいきましょう。中庸の内容は大きく捉えると、3つに分かれて考えられるという解釈があります。3つに分けた場合、最初のパートは第一章です。「天の命ずるを、これ性と謂う」という有名な件で始まる第一章で全体概要が語られます。これだけで大学や論語と大分違う印象ですね。一章でズバリと「性」「道」「教」の三者をあげて、これが中庸の大事なポイントだ、との明示です。
続いてのパートは、第二章以下、朱子の章で言うと第二十章前半まで。この部分は、孔子様のお話や尭・舜・禹の徳治政治等、儒家の実践的な教説を多く収録しています。後半部分は、誠が説明されている。誠とは、金谷さんの言葉を借りると「最高絶対の徳目として、宇宙万物の存在にまでも影響を及ぼすその窮極的な根源性」とあります。なんかワクワクしますね。中庸は、このように、論語のようにどちらかというと礼や忠恕や道徳規範的な内容というより、もっと深い哲学的な内容という印象です。

謙二:予習ノートに蒼生さんが書いていましたが、金谷氏がアリストテレス(前 384年- 前 322年)のメソテスを『中庸』と同様なものとしていた、世界はもっと近く影響しあっていたのではと思う。この時期のヨーロッパや日本がどうだったのか。今まで論語から四書を読み進めていたが、もっと広くこの時代に世界で何が起こっていたかを知りたい。

凪沙:ソクラテスが語っていた「無知の知」も、孔子様が「知らないことを知らないと認めよ。それが知ることだ」と同年代に、西洋と東洋で語られた。天の御指示というか時代の流れではないかと感じました。

謙二:西と東に分けているが、本当は近いというか、影響し合っている気がする。もっと幅を広げていきたい。

丈山 :金谷さんの解説に、「中庸後半の“誠”の説明は、こうして最高絶対の徳目として、宇宙万物の存在にまでも影響を及ぼすその究極的な根源性を強調し」とある。今まで、誠は何で正しいかというのを理論立てて説明するというのは考えたこともなかったし、できなかった。まだ、本文を全部読んでいないが、中庸の後半では、なぜ誠が正しいのかに触れられているのではないか、と予感させられる。

備後:私もこれを読んでわくわくさせられた。

耕大:論語の孔子様のお話は日常的な具体的なお教えだったが、中庸になって、老子的な宇宙の根源に触れていて、儒家も時代が進んでより進化して行ったのかと思った。そもそも中庸も子思様が全部書いたのではなく、内容からして一部は孟子の後に書かれたのでないかという説もあり、面白そうだと思った。

備後:時代背景として、「道家」対「儒家」のようなものがあり、孔子様のお教えは日常倫理規範に過ぎず、深くないじゃないかと批判されていたと解説にあった。その批判に対しての子思様の反論含めての中庸だったという面もある。

謙二:儒家と老仏二家との闘いがあり、それに対抗する内容が見受けられる。

蒼生:メソテスという中庸に近いことを言っているアリストテレスの師がプラトンで、その師がソクラテスで、皆、孔子様が亡くなった後にギリシャで生まれていて、もしかしたら中国の儒教が伝わったのか?と、興味深いと思った。どちらも人類の存在の根本のところに触れられている。『中庸』は『論語』や『大学』よりも哲学的な印象で、天というものがストレートに言われていて凄いと思う。中庸という言葉はよく言うが、その本当のところはよくわかっていない。少しでも理解できたらと思います。

帆士:大学を読み始めてから思ったのは、論語とは全然ちがう。『大学』には礼の文字が出てきていなかった。『中庸』は一度だけ礼の一字が出てきた気がしたが、この二つの書物は、礼を身につけて当然という人間が読むものなのかと思った。子思様が書いているかわからないが、凄く優れた人が書いているというのを感じる。『中庸』は本当に読みたかった本です。

備後:読み進めるのに解説本が複数ありますが、章立てなどがバラバラ。解釈にも歴史的にも諸説あり、混乱しやすい。なので、全体を俯瞰してみるために、各解説本の章立てと内容の比較のため、比較表を私の方で作成してみました。皆に配ります。
宇野さん本と金谷さん本と赤塚さん本を比較しています。朱子即ち、宇野さんは33章構成で、ある種スタンダード。金谷さんは19章。特徴的には、朱子は前半部の章が内容短めだが、突然20章が長い。20章は、誠が出てくるし、五倫や九経や知仁勇など出てきて盛りだくさん。これらを金谷本はバランスをとって再分割している印象。私が作った一覧表には章構成の比較と同時に、各章の概要についても記載した。宇野さん本の概要については私がざっと読んでまとめたもの、赤塚さん本の概要についてはそのまま本に掲載されていたもの。全体的に掴むために、赤塚さんが五段に分割しているのをご紹介すると、

一段『中庸の基本構造を示す』、
二段『君子の道が中庸であり、その実践により高遠に至る』、
三段『道の実践は誠に帰する』、
四段『誠は天の道、性の本質であり、至誠を天地に配す』、
五段『至誠の聖人について』といったところです。

基本的には金谷さん本を軸に、進行していこうと考えます。

耕大:大学の時は、朱子は順番を入れ替えていたが、今回はそういうことはないのか?

備後:大きくはないです。一部金谷さんが、朱子さんの第十六章を第二十四章部分に移している。また、子思様本人が書いた部分と、別で後世儒者が書いた部分に分けられるという説がある。第二章から第二十章の前半まで、子思様が書いたという説。金谷さん本はその説を取っていると感じる。宇野さんはそれには触れず。全部子思様の著作だというトーンで書かれている。確かに内容には、明らかに時代的に違うだろうという部分などもあるようだ。

耕大:まだ全部読んでいないので何ともいえないが、そういうのはあるのではないか。そもそも第一章と第二章がまるで別の著作のように違うので、これは同じものなのかという気はする。

帆士:第一章は言い切って終わっている気がする。

備後:後半は?老荘思想的な感じがある。なんとなく全体が読めたところで、中庸章句序を読んでいきたい。金谷さん本と宇野さん本を皆さん持っていると思いますが、それぞれ入っている位置が違う。

帆士:序には朱子の考えがざーと書いてある。

備後:中庸章句は朱子の考え方が、中庸全般に入れ込まれているものだが、先ずは中庸章句の序部分を読みましょう。金谷さん本で基本的に進めたいが、本文が掲載されていないので、宇野さん本で素読しつつ進めたい。この章句も金谷本では七節に分かれているが、この分け方も諸説あると感じる。

帆士:宇野さんので読んでいきましょうか。

『中庸章句 序』

第一節

中庸何爲而作也。子思子憂道學之失其傳而作也。

中庸は何の為にして作るや。子思子道學のその伝を失わんことを憂えて作るなり。

第二節

蓋自上古聖神、繼天立極、而道統之傳、有自來矣。

其見於經、則允執厥中者、堯之所以授舜也。人心惟危、道心惟微、惟精惟一、允執厥中者、舜之所以授禹也。堯之一言、至矣盡矣。而舜復益之以三言者、則所以明夫堯之一言、必如是而後可庶幾也。

蓋し上古の聖神、天に継いで極を立てしより、道統の伝、って来る有り。

其の経に見ゆるは、則ちまことちゅうれとは、堯の舜に授くる所以なり。人心れ危く道心惟れ微なり、惟れ精惟れ一、允に厥の中を執れとは、舜の禹に授くる所以なり。堯の一言、至れり尽くせり。而して舜たこれを益すに三言をもってするは、則ち夫の堯の一言必ず是くのごとくにして而して後に庶幾しょきす可きを明らかにする所以なり。

謙二:(宇野さん本を音読)子思様が道学の伝承の途絶えるのを恐れて作ったものである。

備後:金谷さんの解説もそのままです。

桃太:上古の聖人が道の伝統の継承をして来たという内容。堯帝から舜帝に天下を授けた時に「まことにその中を守れ」と伝え、舜帝から禹帝に天下を譲られた時には更にそこに三句を加えたのは「その中を守れ」の正しい実現が期待できることを明らかにするためという内容です。

備後:これが、古来の徳治政治の世に聖人間で伝わっていた大事な言葉のようです。

謙二:まことにその中を執る、という最初が大事。この一句、道統で、堯帝、舜帝、禹帝、湯王、文王、武王、周公、孔子様、顔回兄、曾子様、子思様と継がれている。人の心れ危く、道の心惟れ微かなり、惟れ精惟れ一の三句はあとから付け加えられたのではないかという説もあります。人心は、これが欲にまみれていく心。道心は純粋なものであり微妙なので分からなくなる。だから精一杯この違いに心を当てて、理解するようにしましょう。そのやり方が三句ではないかと思いました。

備後:宇野さんの解説では「允に中を執れ」がとても大事な言葉だとされている。「中」ってなんでしょうか?

凪沙:偏らないという意味だけでなく、もっと超越した広い意味があると思います。足して2で割るような真ん中ではない。論語の勉強で学んだ時に、「中」には2つのものを結びつけるという意味があったと思います。

謙二:中とは過ぎたるでも及ばざるでもなく偏りのない中正。

備後:ここはえらく大事らしいです。私も最初ここを読み、四句十六文字が伝承されてきた、とあったのを見て探しました。「人心惟危 道心惟微 惟精惟一 允執厥中」ですね。

耕大:中は私は一言では勿論言えないが、徳というものがあり、徳に沿うように生きることが中ではないか。

謙二:堯日二十一章に「にその中を執れ」とあります。

備後:論語を読んだとき、これは、そんなに印象がなかったです。そんなに大事だったとは、です。

第三節

蓋甞論之、心之虛靈知覺、一而已矣。而以爲有人心道心之異者、則以其或生於形氣之私、或原於性命之正、而所以爲知覺者不同、是以或危殆而不安、或微妙而難見耳。

然人莫不有是形、故雖上智不能無人心。亦莫不有是性、故雖下愚不能無道心。二者雑於方寸之間、而不知所以治之、則危者愈々危、微者愈々微、而天理之公、卒無以勝夫人欲之私矣。

精則察夫二者之間、而不雑也。一則守其本心之正、而不離也。從事於斯、無少間斷、必使道心常爲一身之主、而人心毎聽命焉、則危者安、微者著、而動靜云爲、自無過不及之差矣。

蓋しこころみにこれを論ぜん、心の虛靈知覚は一のみ。而してもって人心道心の異ありと為すは、則ちその或いは形気けいきわたくしに生じ、或いは性命の正にもとづくをもって、知覚を為す所以の者同じからず、ここをもって或いは危殆きたいにして安からず、或いは微妙にして見難きのみ。

然れども人是の形あらざる莫し、故に上智と雖も人心なき能わず。亦是の性あらざる莫し、故に下愚と雖も、道心なき能わず。二者方寸の間にまじわって、これを治むる所以を知らざれば、則ち危うき者は愈々いよいよ危うく、微なる者は愈々微にして、天理の公、ついにもって夫の人欲の私に勝つなし。

精は則ち夫の二者の間を察して雑えざるなり。一は則ちその本心の正を守って離さざるなり。事に斯に従って少しの間断なく、必ず道心をして常に一身の主と為って、人心をしてつねに命を聴かしむれば、則ち危うき者安く、微なる者あらわれて、動静云為どうせいうんいおのずから過不及の差無し。

備後:この三段落に対応した金谷さんの解説が第三節にあります。

秋実:人の心と道の心という区別があるとしている理由は、心は一面では形の原理である気によって存在しているので、その気にともなう私的な偏りの上に立っており、他面では天命の本性である理によって存在しているので、それにともなう正常なあり方にもとづいている。そこで、知覚の働き方もさまざまであって、そのために危険で安定しない心もあれば、微妙で捉えにくい心もあるということになる。

備後:道心は、言わば人間の根幹の元々が持つ天に通ずる綺麗な心、のような感じかと。誰もがきれいな心を持っているが、我により、そして欲求により、人心が表面に出てきてしまい、道心は曇っている、こんな感じですかねぇ。

丈山 :「心は一面では形の原理である“気”によって存在しているので、その“気”にともなう私的な偏りの上に立っており、他面では天命の本性である“理”によって存在しているので、それにともなう正常なあり方にもとづいている。」というところが、金谷さんの解説でも理解できないので、その先も理解できない。感覚的には、心の中には、個人的な人心と、天から授かった道心が同居していて、それがどちら側にもぶれ得るという感じかと思った。

備後:天からの心が道心っていいました?

帆士:この精ってなんですか?

凪沙:宇野さんの解説では、「どれが人心か道心かを精密に考察して、両者を交えさせないようにすること」とあります。

備後:金谷さんの言葉を借りると。

桃太:道心と人心を観察するようなことが書いてあった。

備後:道心をひっぱりだせ、と。

佐龍:金谷さんの言葉だと精密に考えるとある。

帆士:ありのままを見る。ジャッジしない心。

備後:そういうことでしょうかね。この節、道心、人心というのが新鮮でした。論語ではなかった観点の心の分析ですよね。

凪沙:論語には無かったですが、似たような表現はあったかも知れません。

第四節

夫堯・舜・禹、天下之大聖也。以天下相傳、天下之大事也。以天下之大聖、行天下之大事、而其授受之際、丁寧告戒、不過如此、則天下之理、豈有以加於此哉。

自是以來、聖聖相承。若成湯・文・武之爲君、皐陶・伊・傅・周・召之爲臣、旣皆以此而接夫道統之傅。

若吾夫子、則雖不得其位、而所以繼往聖、開来學、其功反有賢於堯舜者。然當是時、見而知之者、惟顏氏曾氏之傅得其宗。及曾氏之再傅、而復得夫子之孫子思。則去聖遠、而異端起矣。

夫れ堯・舜・禹は、天下の大聖なり。天下をもって相伝うるは天下の大事なり。天下の大聖をもって天下の大事を行いて、而してその授受の際、丁寧告戒此の如きに過ぎれば、則ち天下の理にもって此に加うる有らん哉。

是より以来このかた、聖聖相承あいうく、成湯・文・武の君たる、皐陶こうよう・伊・・周・召の臣たるが若き、既に皆此をもって夫の道統の伝を接す。

吾が夫子の若きは則ちその位を得ずと雖も、往聖を継ぎ来学を開く所以、その功かえって堯舜よりもまさる者あり。然れども是の時に当って、見てこれを知る者は惟顔氏曾氏の伝その宗を得たり。曾氏の再伝に及んでた夫子の孫子思を得たり。則ち聖を去ること遠くして異端起こる。

凪沙:堯帝、舜帝、禹帝は天下の大聖人である。それぞれの帝から次の帝へ天下の統治を譲り渡した時に告げられた言葉は「人心これ危うく、道心これ微かなり。これ精、これ一、まことにその中をとれ」だった。天下の道理はこの言葉に尽きる、という内容です。

備後:続いた後半部分では、孔子様が出てきます。顔回兄と曾子兄が孔子様の教えを継いだが、子思様の代になって、他教に押されて正しい道が失われていくことを恐れた旨、書かれています。

桃太:そのままですが、臣下の中にも、そういう道を継いでいらっしゃったのが見て取れます(臣下は金谷氏の解説の中のみ)。

備後:「異端の説」というのは誰が誰に向かっての発言なんですかね。

帆士:仏教じゃないですか?

備後:仏教、道教のことを言っているようですが。

耕大:儒教の中でも色々と派閥があったんじゃないですか?

秋実:「異端の説が勃興」は、「戦国に入って儒家以外の諸子百家の説が盛んになった状況をさす」と書いてありますよね。

備後:異端と書いてあるから、言葉がきつくて所謂、悪い教えを攻撃している感じがしますが、仏教や道教にこの言葉を使うんですね。時代背景とは思いますが。

謙二:儒教もこれだと一神教という感じですね。

備後:五節に行きたいと思います。

第五節

子思懼夫愈々久而愈々失其眞也。於是推本堯舜以來相傳之意、質以平日所聞父師之言、更互演繹、作爲此書、以詔後之學者。蓋其憂之也深。故其言之也切。其慮之也遠。故其說之也詳。其曰天命率性、則道心之謂也。其曰擇善固執、則精一之謂也。其曰君子時中、則執中之謂也。世之相後、千有餘年、而其言之不異、如合符節。歴選前聖之書、所以提挈綱維、開示蘊奧、未有若是之明且盡者也。

子思夫の愈々いよいよ久しくして愈々その真を失わんことをおそる。是において堯舜より以来このかた相伝うるの意を推し本づけて、質すに平日父師に聞ける所の言をもってし、更互こうご演繹してこの書を作為し、もって後の学者にぐ。けだしそのこれを憂うるや深し。故にそのこれを言うや切なり。そのこれをおもんばかるや遠し。故にそのこれを説くことやつまびらかなり。その天の命 性にしたがうと曰うは、則ち道心のいいなり。その善をえらび固く執ると曰うは、則ち精一の謂なり。その君子時に中すと曰うは、則ち中を執るの謂なり。世の相後るること千有余年にして、その言の異ならざること符節を合わすが如し。前聖の書を歴選するに綱維こうい提挈ていけいし、蘊奧うんおうを開示する所以、未だかくの若く明らかに且つ尽くせる者あらざるなり。

備後:この部分を金谷さんが解説を書いていますが、ポイントを解説お願いします。

牧田:子思は道が失われることを心配されて、父や師に伺った言をもって中庸をつくりなさいと学者に云います。中庸の首章は天の命之を性といい、性に従うこれを道というと云ったのは、大禹謨の道心の事で、道心は魂の意識の事と思いました。中庸の善を択ぶというのは舜が禹に授けた辞の中の「精」のことであり、又固く執るというのは舜が禹に授けた辞の中の「一」のこと、君子時に中すと云うのは舜が禹に授けた「執中」のことで、(堯舜の時から子思の時は)千有余年ありますが違わぬようにしなさいとあります。

備後:何度も出てきましたが、やはり中のこととか、精とか一とか、朱子の解釈という面はあるのですが、尭舜の時代から孔子様を経て貫かれた教えは素晴らしいと。そして、その大綱を掲げて奥義を開示した、といえるこの中庸は素晴らしい、ということが書かれていますね。金谷さんの説明部分は、何を書いているかややわかりにくいのですが、そういう観点かと私は見ました。

凪沙:わかりにくいですが、そんなことかと思います。

備後:朱子さんが書いているのですが、正道が失われてしまうと子思様が憂いて、この中庸をまとめたとあります。そのような背景もありますね。続いて六節、孟子様も紹介されているところを読んでいきましょう。

第六節

自是而又再傳、以得孟氏。爲能推明是書、以承先聖之說。及其没、而遂失其傳焉。則吾道之所寄、不越乎言語文字之間、而異端之說、日新月盛、以至於老佛之徒出、則彌々近理而大亂眞矣。

然而尙幸此書之不泯。故程夫子兄弟者出、得有所考、以續夫千載不之傳緒、得有所據、以斥夫二家似是之非。蓋子思之功於是爲大。而微程夫子、則亦莫能因其語、而得其心也。

惜乎其所以爲說者不傳、而凡石氏之所輯録、僅出於其門人之所記。是以大義雖明、而微言未析。至其門人所自爲說、則雖頗詳盡、而多所發明、然倍其師說 、而淫於老佛者亦有之矣。

是よりして又再伝してもって孟氏を得たり。能く是の書を推し明らめてもって先聖の説を承くることを為す。その没するに及んで、遂にその伝を失う。則ち吾が道の寄る所、言語げんぎょ文字もんじの間に越えず、而して異端の説日に新たに月に盛んにして、もって老仏の徒出づるに至って、則ち弥々理に近くして大いに真を乱る。

しかしこうして尚さいわいにこの書のほろびざるあり。故に程夫子兄弟者なる者出でて、考うる所ありてもって夫の千載不伝の緒をぐことを得、る所ありてもって夫の二家に似たる非を斥くることを得たり。蓋し子思の功ここに於て大いなりと為す。而して程夫子かりせば則ち亦能くその語に因ってその心を得るきなり。

惜しいかなその説を為す所以の者伝わらず、而して凡そ石氏の輯録しゅうろくする所僅かにその門人の記する所に出づ。ここをもって大義明らかなりと雖も、微言未だわかだず。その門人自ら説を為す所に至っては、則ちすこぶつまびらか尽くして、発明する所多しと雖も、然れどもその師説しせつそむきて、老仏にいんする者またこれ有り。

梅花:子思から孟子へと中庸の伝統が受け継ぐ事が出来たが、孟子が没した後その伝統を受け継ぐ人が無くなり文字が存するだけとなる。異端の邪説が盛んになり、真正の道を乱すことになった。明道、伊川の二先生が世に出られて道統を継ぐことができ中庸という書が亡び失せなかった。程夫子が無かったら、また誰もその書中の語によって子思の心を得るものが無かった。惜しいことには二程子が中庸について説を立てられたことが伝わっていない。石子重が集録した中庸集解はそのなかに二程子の説としているのは、二程子の門人の問答を記し止めたものである。二程子の自記したものでないから、大体の意味は明瞭であるが微妙な所ははっきりしない。しかも二程子の説に背いて老仏二家の邪説に流れているものもある。

備後:書かれていることは分かり易いですが、他宗教への邪説扱い凄いですね。

備後:ここも、排他的な単語がちょっと気になります。

謙二:時代背景を考えると、1130年から1200年の朱子の時代はヨーロッパは十字軍の遠征イスラムとの激しい争いでした。中国においても各思想が相手を受け入れられずに色々あったかなと。

備後:金谷さんの説でも「老荘や仏教の思想に溺れている」っていう表現でしょ?

帆士:儒教が国教になったわけでしょ。宋の時代に。春秋戦国時代を経て、秦の始皇帝が中華を統一し、儒教が弾圧された。そのような経緯を経てきた。仏教道教も台頭してきて。

備後:時代背景含めて、色々と状況があるんだろうと思いますが、厳しい表現使いますね。

帆士:文字にすることがあるのかなと。

小雪:異端とまで言っていて排他的と思わせます。宗教間の覇権争いのような状態だったのでしょうか。正しいものを正しいと仏教認めることはなかったんですかね。せめぎあってる感じがします。

備後:それ自体が権力争いに直結とかあったのでしょうか。

小鳥:(儒教や仏教などの)権力争いもあったかもしれない。仏教(の教え)は本当に難しくて、それを正しく伝える者がいなかったのかもしれないし、もし朱子がお釈迦様と出会っていたらどうなっていただろうとも思った。仏教、道教も(理解が)難しいので、悟りを開いてもそれは他の人にはわからなかったと思うし、訳の分からないことを言う人もいたと思う。朱子は儒教に情熱を持ってやっているので、それと(他の教えを)両立する(同時に両方の教えを学ぶ)ことは難しいことだっただろう。他の思想を受け入れるというのは更に難しいという感じがしました。

謙二:例えば権威主義の大学教授なんかは証明できないもの、自分のわからないものを頭から受け入れない人がいる。気功の効用とか。ある意味、朱子学とか国の支えとなるようなエスタブリッシュメントになって権威主義で他を排斥するのかなと。

備後:なるほど。そういった教えの派閥的な論争の中で、儒教にとっては中庸は切り札的な教えの根幹であったようですね。一気に七節を読みましょう。

第七節

熹自蚤歳、即嘗受讀而竊疑之。沈潛反覆、蓋亦有年。一旦恍然似有得其要領者。然後乃敢會衆說 、而折其衷。旣爲定著章句一篇、以俟後之君子。而一二同志、復取石氏書、刪其繁亂、名以輯略。且記所嘗論辯取舎之意、別爲或問、以附其後。然後此書之旨、支分節解、脈絡貫通、詳略相因、巨細畢擧。而凡諸說之同異得失、亦得以曲暢旁通、而各極其趣。
雖於道統之傳、不敢妄議、然初學之士、或有取焉、則亦庶乎行遠升高之一助云爾。淳煕己酉春三月、戊申、新安朱熹序。

熹、蚤歳そうさいより則ちかつて受け読みて、ひそかにこれを疑う。沈潛反覆蓋し亦年あり。一旦恍然としてその要領を得る者あるに似たり。然して後に乃ち敢えて衆説を会してその衷をわかつ。既にために定めて章句一篇を著して、もって後の君子をつ。而して一二の同志また石氏の書を取ってその繁乱はんらんけずり、名づくるに輯略しゅうりゃくをもってす。且つ嘗て論弁取舍する所の意を記して、別に或問をつくり、もってその後に附す。然して後にこの書の旨、支分節解、脈絡貫通、詳略相り、巨細畢ことごとく挙ぐ。而して凡そ諸説の同異得失、亦もって曲暢旁通きょくちょうぼうつうして各々其の趣きを極むること得たり。
道統の伝においてはあえみだりに議せずと雖も、然れども初学の士或いは取るあらば、則ち亦遠きに行き高きにのぼるの一助にちかからんとか云う。淳熙じゅんき己酉きゆう春三月戊申新安の朱熹序す。

丈山 :ここまで、中庸の経緯について述べられてきましたが、第七節では、いよいよ、この章句を書いた本人である朱子が、章句を記した経緯が述べられている。若い時から、中庸を勉強してきたこと、ある時突然にその中心の意味を把握できたように思われたこと、仲間の力添えを得ながら中庸の理論体系を解明したこと。謙虚な文面の中にも、確信を得たという自信が伺える。

備後:ここは、朱子さん自身の中庸への想い含めての素晴らしさの紹介ですね。

桃太:ずっと考えていたのでしょうね。中心の意味を把握したところは何か興味があります。

備後:以上、中庸章句序を読みました。次は一章に入りましょう。

以上