東洋哲学研究会

2017年06月

2017.06.11

中庸章句序

論語勉強会議事録

2017年6月11日(日)15:56~18:13

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『中庸章句序』及び『中庸』第一章を学びました。

テキスト『中庸』 宇野哲人 全訳注


概要

今回から『中庸』を読み始めました。今回は前半の『中庸章句序』までの議論です。

『中庸』について

『中庸』は四書の一つで、『大学』と同様、もともと『礼記』の中の一篇でした。孔子様の孫・子思様の手になるものと伝えられています。『大学』が「初学の入徳の門」であるのに対して、『中庸』は学問の「本源、極致の処」を述べたもの、すなわち、「学び始めの大学、学び納めの中庸」と言われています。

『中庸』の内容は、身近な「中庸」の徳とそれを基礎づける「誠」を説くものとされています。全体の構成を三つに分けた場合、一番目が「天の命ずるを、これ性と謂う」で始まる第1章で、全体の総論となっています。二番目は、第二章から朱子章句による第二十章前半までで、孔子様のお話や尭・舜・禹の徳治政治等、儒家の実践的な教説を多く収録し、具体的実践的な各論となっています。そして三番目に、「誠」について説かれています。『大学』で、まず「意を誠にする」ことを学びましたが、『中庸』で、「誠」とは「最高絶対の徳目として、宇宙万物の存在にまでも影響を及ぼすその窮極的な根源性」(金谷治氏)であることが説き明かされ、「誠」の深遠なる根拠に触れることとなり、参加者は、期待に胸を膨らませて『中庸』に臨みました。

『中庸章句序』について

朱子は、『大学』と同様、『中庸』についても独自の解釈を施し、『中庸章句』となしています。その『章句序』は、聖王から脈々と伝えられてきた道統に対する朱子の切々たる思いが、子思様の使命に託して語られていると感じます。『論語』堯白第二十において、堯帝が舜帝へ、舜帝が禹帝へ位を譲られる時、「まことの中を執れ」と伝えたとされています。それに対して、朱子は、舜帝は、「人心れ危く道心惟れ微なり、惟れ精惟れ一、允に厥の中を執れ」と三言をもって、禹帝に伝えられたと言います。すなわち、私たちの心は、「肉体の影響を受けている人心」と「本来具有する道義の心」からなっていて、人の心は肉体の欲によって迷いやすく、そのために危うく、「本来具有する道義の心」は物欲に覆われて明らかにし難いため、微妙である。そのため、いずれが人心でいずれが道心か精密に考察してまじえないこと、本心の正を守って失わないことが説かれています。

「惟精」は、「いずれが人心でいずれが道心か精密に考察してまじえないこと」と解説されていますが、それがもし「考察」すなわち思考・理性に依拠するものであるならば、春秋館で教えていただいている自法は思考・理性のみに頼るものではないので、「惟れ精惟れ一」と同じものといえませんが、他方、何か通じるものがあるようにも感じました。

2017.06.11

『中庸』第一章

論語勉強会議事録

開催日時:2017年6月11日(日)15:56~18:13 

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『中庸章句序』及び『中庸』第一章を学びました。

テキスト『大学・中庸』金谷治 訳注


概要

後半は、『中庸』第一章について議論しました。第一章は、『中庸』全体の総論という位置づけです。『大学』で説かれた「慎独」(なぜ君子は独りを慎むのか)がここで説き明かされます。第一章を一つずつ読み解いていきます。

「天の命ずるをこれ性と謂い、性に したが うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。」

人には、「天」すなわち宇宙の主宰者、天地万物創造の神の命により、生れつき具わっているものがあり、それを「性」といいます。その性に従うものを「道」といいます。人には天命により生れつき具わった「性」がありますが、その行ないが「道」と一致しないことがあるため、「教え」によって「道」を修める必要があります。

『大学』では、人は「意を誠にする」ことで本能的に善と不善とを感じ分けられると説かれていました。なんとなれば、人には、天命によって先天的に「性」が具わっているからです。しかし、聖人でない限り、その「性」は明らかとなっていません。それ故、切磋琢磨の詩に描かれているように、君子はひたすらに道徳を学び修養を重ね、自らに具わった明徳を明らかにしようと努めます。

「道は 須臾 しゅゆ はな からざるなり。離るべきは道に非ざるなり。 」

「道」は、ほんのひと時でも離れることがないものです。また、離られるものは「道」ではありません。つまり、「道」とは森羅万象ことごとくを貫き、極微なるものに及び、網羅されるものであると感じられます。

の故に君子その ざる所を 戒慎 かいしん し、その聞かざる所を 恐懼 きょうく す。隠れたるより あらは るるは く、 かす かなるより あらわ なるは莫し、是の故に君子その独りを慎むなり。」

そのため、君子は自分が見ることのないものにも常に我が身を戒め慎み、聞こえないものにも常に恐懼します。なぜならば、隠れているものであっても現れないことはなく、微かなものであっても顕われないものはないからです。それ故、君子はその独りを慎しみます。

『大学』で、曽子様が「十目の視る所、十手の指さす所、其れ厳なるかな」と言って、常に戦々兢々として身を慎まれていたことが思い浮かびます。修行不足の凡夫には思いも寄らないことが、「道」に反することとなるのが伺えます。意を誠にし、独りを慎しみ、常に戒慎恐懼する者でなければ、わからないものと想像されます。

「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂ふ。発して皆な節に あた る、これを と謂う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。 中和 ちゅうか を致して、天地 くらい し、万物育す。」

「喜・怒・哀・楽の感情が動き出す前の平静な状態」を「中」といい、「感情が動き出したが、それらがみな然るべき節度にぴたりとかなっている状態」を「和」といいます。「中」こそが、「世界じゅうの万事万物の偉大な根本」であり、「和」こそが「世界じゅういつでもどこでも通用する道」です。「中と和とを実行しておしきわめれば、人間世界だけでなく、天地宇宙のあり方も正しい状態に落ち着き、あらゆるものが健全な生育をとげることになる」(金谷氏)と説かれます。

つまり、喜怒哀楽の感情の偏り、過不足によって平静な状態が乱され、調和を失うことが説き明かされます。『大学』の「正心」「修身」で説かれていたことと符号する内容です。

春秋館で学んでいる自法は、まさにこの「和」の状態へ導くものといっていいかもしれません。自法を続けると本当の豊かな感情がでるようになると教わっています。

いまままで『大学』を通して、いかにして己を修めるかを見てきましたが、『中庸』を通してより根源的な視点から脩己・明明徳についてあらためて考えていきたいと思います。

2017.06.04

『大学』旧本 第五章続~第六章

論語勉強会議事録

2017年6月4日(日) 14:10~16:05

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』旧本第五章続~第六章を学びました。

テキスト『大学・中庸』 金谷治訳注


概要

『大学』旧本の第五章~第六章は、大学章句の伝九章~伝六章に該当し、同じ内容です。今回二度目の議論となります。

今回議論していて浮かび上がってきたことは、戦後の日本では、家庭内でも学校でも社会でも、道徳を教え、学び、実践することがほとんど見られなくなったのではないかということでした。

日本では、古くより『論語』などを通じて儒教・儒学を学んできました。江戸時代においては、上は主君・幕臣・藩士などが、幕府・各藩が奨励する儒教をたしなみ、下は庶民が寺子屋などで儒教を学んでいました。それは単なる知識や学問ではなく、自分たちの日々の行動・生きざまを律する教えであり、精神的支柱をなしていたものと思われます。

『大学』は、自らを修め、家庭内を和合し、社会を調和し、国を治めるにあたって、それらが一つの根本的な原理(道理)に貫かれていることを教えてくれます。そしてそれは自然の原理(天理)に通じるものと考えられます。故に、格物・致知が説かれたのだと思います。

かみ 老を老として而(乃)ち 民孝に興り、上長を長として而ち民弟(悌)に興り、上孤を恤みて而ち民倍かず。」

(上にたつ君主がその国の老人を老人として大切にしていると、天下の万民もまた孝行になろうとふるいたち、君主がその国の年長者を年長者として敬っていると、天下の万民もまた従順になろうとしてふるいたち、君主がその国の親なし子をあわれんで助けていると、天下の万民もむつみあって離れなくなる)

「徳は本なり、財は末なり。」

「国は利を以て利と為さず、義を以て利と為す」

『論語』『大学』などに説かれていること、これまでの日本に脈々と受け継がれた道徳(五常八徳)を、再びと日本に取り戻すことが急務と思われます。そのためにも、私たち一人ひとりが自分を磨くことに努めなければならないと受け止めました。