東洋哲学研究会

2017.05.20

『大学』大学章句伝十章・旧本 第一章

論語研究会議事録

2017年5月20日(土) 16:58~19:10

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句伝十章と『大学』旧本 第一章途中までを学びました。

  テキスト『大学』 宇野哲人全訳注 

テキスト『大学・中庸』 金谷治訳注


概要

第十章の続きを読み、その後、『大学』旧本を最初から読み始めました。

第十章 ここでは、国家が財をなすことについて語られています。

魯の大夫・孟献子の言葉「馬乗を畜うものは鶏豚を察せず。伐氷の家は牛羊を畜わず。百乗の家は聚斂の臣を畜わず。その聚斂の臣あらんよりは、寧ろ盗臣あれ」とは、高位にある者は、家に鶏豚牛羊を飼って、庶民の職を奪ってはならぬ。人々から 膏血 こうけつ を絞りとるような家臣を持つくらいなら、自分の家の財物を盗む家臣を持つ方がよいという意味です。すなわち、国家を治める者は、己の私利を利とせず、万民の利をもって公義となすことが語られています。また、小人とは、義を求めず、利を求める者であるから、小人に国を治めさせたら、人民から 膏血 こうけつ を絞りとり、「民は窮して、財尽き、上は天の怒りにふれ、下は人の恨みを得て、天の災いと人の害と同時にくる(宇野氏)」ことが説かれています。

『大学』の冒頭にあった「物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。」は万事に通じる道理であり、国家が財をなすことについてもその道理があてはまります。「徳が本で、財は末」、「仁者は財をもって身を発し、不仁者は身をもって財を発す。」「国、利をもって利と為さずして、義をもって利と為す。」これらは、道徳を本とし、道徳から始め、道徳を先んずるべきことを伝えています。道徳・修身を疎かにすることがあってはならないことは、現代にも通じる大事な教えです。

ここまで朱子の手になる『大学章句』を読んできましたが、あらためて『大学』旧本を読むことにしました。『大学章句』と異なる点は、『大学章句』では、各論が「格物致知」で始まっていたのに対して、旧本は「意を誠にす」から始まります。また、『大学章句』では「新民」としていたのに対して、旧本では「親民」としています。これらの点についてもう一度議論しました。自分たちで答えを導くことは容易ではありませんが、二宮尊徳(金次郎)のように、『大学』を繰り返し読み、その語るところをいずれわがものにし、わが国を、道徳を重んじる国へとしたいというのは、春秋館に学ぶ私たち参加者一同に共通の思いです。

伝十章(続)

生財有大道。生之者衆、食之者寡、爲之者疾、用之者舒、則財恒足矣。仁者以財發身、不仁者以身發財。未有上好仁、而下不好義者也。未有好義、其事不終者也。未有府庫財非其財者也。

財を生ずるに大道あり。これを生ずる者 おお くして、これを くら う者 すく なく、これを為す者 くして、これを用うる者 ゆる やかなれば、即ち財 つね に足る。仁者は財をもって身を はっ し、 不仁者 ふじんしゃ は身をもって財を はっ す。未だ かみ 仁を好みて しも 義を好まざる者あらざるなり。未だ義を好みてその こと 終らざる者あらざるなり。未だ 府庫 ふこ の財その財に あら ざる者あらざるなり。

帆士:ここは天下を治めて財政を治めるには大道があるというところから始まる。殖産興業に努めて財を成すという者は多い。消費を少なくして、つまり倹約をして、生産する事を速やかにすれば材が蓄えられる。このことがポイントだと思う。仁者は財があればそれを施すことに務め、身を興したり、いろいろに使う。不仁者は財を蓄えて富を成す、そこに気持ちがいくというところ。この違いを端的に表している。

遠雷:財について書かれているところで、前半は理屈からいくとその通り。沢山生産して使うのが少なければ財が残る。この辺は今にも通ずることですよね。

帆士:そうですよね。

帆士:ここは、民の為に本当に必要なものを使う、それが仁者ということ。何のために生産して何のために使うか、そこを言いたいのかと思う。

備後:私も同じように思います。基本的には天下国家における財の捉え方が書かれているかと思いますが、諸橋さんの解説で仁者の為政者は財産を利用することで我が身や国家を起こしていく、不仁者は財を作ること自体が目的となってしまっている、とあります。

遠雷:孔子様が「論語」で財を成すこと自体を否定していないが、義に反して財を成すのは認めておられない。ここでいっているのは、仁者は財を使って、自分の礼命を成して、自分の身を興していく。財を成すことが目的ではなく、財を用いていく。不仁者は財を成していく、という対比を論じている。上の人が徳があれば世の中が良くなる。義をもって事に当たったら達成できないことはない。

蒼生:大道は、所謂「大道」ではなく、道筋とか道理という意味ですか?

備後・帆士:そうですね、違います。

帆士:人が金を求めるのは金が欲しいからなんでしょうかね?

遠雷:不仁者はそうですよね。

帆士:冷静になっていないのかな?大変だから成し得てもまだ足りないということですかね。何故貯めるのか?他のものに例えたらわかるか?お金で以て本当は何を得たいと思っているのか。

遠雷:この程度でいいというより、もっともっととなる。

秋実:お金があれば満たされると思っている。お金さえ有ればが何でも好きなことが出来、買えると思っている。

遠雷:貯める事自体が目的になっている人がいる。それで安心する人はいる。

小雪:常に得をする方しか選ばない人はいますよね。それが基準のような。

帆士:基本的にみんなそうですよね。

秋実:何を得とするかによる。

蒼生:答えが次にあります。

孟献子曰、畜馬乘、不察於雞豚。伐氷之家、不畜牛羊。百乘之家、不畜聚斂之臣。與其有聚斂之臣、寧有盜臣。此謂國不以利爲利、以義爲利也。長國家而務財用者、必自小人矣。(彼爲善之)小人之使爲國家、葘害並至。雖有善者、亦無如之何矣。此謂國不以利爲利、以義爲利也。

孟献子 もうけんし 曰く、 馬乗 ばじょう うものは 鶏豚 けいとん さっ せず。 伐氷 ばっぴょう の家は牛羊を わず。 百乗 ひゃくじょう の家は 聚斂 しゅうれん の臣を わず。その 聚斂 しゅうれん の臣あらんよりは、 むし 盗臣 とうしん あれと。これを国、利をもって利と為さずして、義をもって利と為すと謂う。国家に ちょう として財用を務むる者は、必ず小人に りす。小人をして国家を おさ めしむれば、 菑害 さいがい 並び至る。善者ありと雖もまたこれを如何ともするなし。これを国、利をもって利と為さずして、義をもって利と為すと謂う。

備後:前節に引き続いての話となりますが、まず前段で、馬とか氷とか馬車とかが自由にできる富裕の人、民から治める即ち税を徴収する側の人は、小利にとらわれるべきでない、という話があります。それに続き、民から税を搾り取る役人よりは、内部の財を掠め取る泥棒の方がいい、という話になります。そういった小役人が国を治めて利をおさめるというのは、民から搾取することであり極めて悪いことで、それなら内部財産を盗む盗賊の方がよいということです。そして最後に、国家における利とは財でなく、義こそ国家の利である、と纏められます。

遠雷:「その聚斂の臣あらんよりは、むしろ盗臣あらん。」というのは、自分の身は被害があってもいいが、国の為に被害がある人を使ってはいけないということ。民からはお金をとらないほうがいい。自分の身が細まっても、泥棒を養ったほうがいい。

十舟:社会の大きな広い世界に影響を与えるものと考えると泥棒のほうがいいのかと思った。

遠雷:小人に国家を治めさせたら、災害が起こる。小人にやらせてはいけない。

備後:宇野さんは、民は窮してしまうため民の怒りも買い、ひいては天の怒りにも触れてしまう、と言っています。

遠雷:小人は自分の利を求めてしまう。

帆士:お金を持っている役所はすごく威張っているし、勘違いしている。自分があたかもお金を持っているように思い始める。なかなか難しい。

秋実:私も感じています。予算編成関係の教科書には「あなたが嫌われるのは、あなたの仕事が嫌われているのであって、あなたが嫌われているのではありません。」と書いてあった。

帆士:日本人は、そのお金が無駄に使われていて本気で怒ることはしない。

秋実:企業も役所からお金を取ればいいやと思っているところがある。

帆士:役人から勝ち取るなんでできないよ。

備後:お役所さんには、私はしょっちゅう謝ってばかりです。会社人としては、自分が謝るというよりも、自分の立場が謝るという感じですが。

蒼生:取る方はもっと酷いよ。差別するし。

備後:宇野さんの本に、一旦、小人の為政で災いが起こってしまうと、挽回しようとしても時すでに遅し、とある。

遠雷:小人が人々の上にいると、災いが起こる。最後の結論が、利を以て利と為さずして、義をもって利と為すという。

梅花:小人だらけだから。

帆士:利を追い求める小人はどうしたらいいのか。

秋実:自分が小人だと気づくことからだと思う。

右傳之十章、釋治國平天下。凡傳十章。前四章統論綱領指趣。後六章細論條目工夫。其第五章乃明善之要。第六章乃誠身之本。在初學尤爲當務之急。讀者不可以其近而忽之也。

右伝の十章、国を治め天下を平らかにすることを しゃく す。 およ そ伝十章。前の四章は 綱領 こうりょう 指趣 ししゅ 統論 とうろん す。後の六章は 条目 じょうもく 工夫 くふう 細論 さいろん す。その第五章は すなわ ち善を明らかにするの よう 。第六章は乃ち身を まこと にするの もと 初学 しょがく に在りてはもっとも まさ に務むべきの きゅう と為す。読者その近きをもってこれを ゆるが せにす からからざるなり。

牧田:十章は国を治め天下を平らかにすることを云っている。前四章は三綱領の趣旨を、後の六章は八条目の工夫を細かく論じ、五章は格物致知の善を明らかにし六章は誠意の解釈で身を誠にする。初学者は是非せねばならぬ急務で、これを読む人はその解釈が卑近なところだからといって、これをおざなりにしてはいけないとありました。

遠雷:初学者にあっては六章のみか?五章と六章を言っているのですね。五章は格物致知、六章は誠意。

大学の後に書す

右大學一篇、経二百有五字、傳十章。今見於戴氏禮書。而簡編散脱、傳文頗失其次。子程子蓋嘗正之。熹不自揆、竊 因其説、復定此本。蓋傳之一章、釋明明徳。二章釋新民。三章釋止於至善。以上並従程本、而増詩云瞻彼其奥以下。四章釋本末。五章釋致知。並今定。六章釋誠意。従程本。七章釋正心・修身。八章釋修身・齊家。九章釋齊家・治国・平天下。並従旧本。序次有倫、義理通貫、似得其真。謹第録如上。其先賢所正、衍文誤字、皆存其本文、而圍其上、旁注所改。又興今所疑者、并見於釋音云。新安朱熹謹記。

右大学 一篇 いっぺん 、経二百有五字、伝十章。今 戴氏 たいし の礼書に見ゆ。而して 簡編 かんぺん 散脱 さんだつ し、伝文 すこぶ るその次を失う。 子程子 していし けだ し嘗てこれを正せり。 自ら はか らず、 ひそか にその説に因り、 また この本を定む。蓋し伝の一章は、明明徳を釈す。二章は新民を釈す。三章は至善に とど まるを釈す。(以上は並びに程本に従う、而して詩に云く彼の 其奥 きいく れば以下を増す。)四章は本末を釈す。五章は致知を釈す。(並びに今定む。)六章は誠意を釈す。(程本に従う)七章は正心・修身を釈す。八章は修身・斉家を釈す。九章は斉家・治国・平天下を釈す。(並びに旧本に従う)序次倫有り、義理通貫して、その真を得るに似たり。謹みて第録 第録 ていろく すること上のごとし。その先賢の正す所、 えん 文誤字は、皆その本文を存して、その上を囲み、改むる所を傍注す。又今疑う所の者と、 ならび に釈音に しめ すと云う。新安の 朱熹 しゅき 謹みて記す。

凪沙:礼記の一章である大学は205字程度の内容で10章から構成されている。内容に錯簡があり、程子が修正したものを参考に朱熹が編纂した。一章は明明徳、二章は新民、三章は至善、四章は本末、五章は改訂を加えて致知、六章は誠意、七章は正心・修身、八章は修身・斉家、九章は斉家・治国・平天下を、誤字脱字を改めて朱熹が解釈したというあとがきです。

帆士:宇野さんがあとがきに、朱子がやっていると書いてある。

遠雷:十章の最後に載っている。朱熹は『大学』の注をなんども見直していた。

凪沙:死ぬ直前までやっていた。

遠雷:これで一通り『大学』を読みましたがどうですか?

凪沙:『大学』は、小人が大人になるために指導したテキストなのではないかと思いました。

遠雷:修己治人というのがあり、儒教に貫かれた考え方。これを系統立てて分かり易くしてある。

帆士:正論だけど難しいというか。その通りですとは思うが。そこに至るにはどうしたらいいかというか。

遠雷:朱子としては「格物致知」とは何?、ということで注釈を付けた。それで、『大学』は難しいということになった。旧本よりも難しい印象。金谷さんのを読むと引っかからずに読める。

帆士:そこは拘るところだったのか?というのがある。

遠雷:格物は今でいう科学ということなんですかね。

帆士:格物で致知とならないのは、修養が足りないと言っている。朱子語録等で、弟子が質問しているが、結局それに到れないのは格物が足りないと。まるでループのようで、到れない。

遠雷:『大学』を読んで『論語』でわからないところがわかるようになったところもあったように思う。

秋実:天下国家を治めるには家から。身近な家を修めるところからやれば良いというのが分かってすっきりした。行き過ぎると、変に歪められ格式だけが重んじられるような儒教になっている? 昭和天皇の時代の皇室を見ると安らかで平らかである。今の天皇陛下(平成天皇)も即位されてから変わってきた感じがあった。国を治めるとはそういうことなのかなと思った。

遠雷:世の中はマキャベリの世界で、ここの徳治政治が稀なもの。陛下は国民を家族のように思ってくださっている。自分に厳しく、人にやさしくというのが貫かれている。最初から明徳を明らかにしている人が出てくるが、ここで理想を語りつつも、小人の話も出てきた。

帆士:理想を語ったあとで、小人も出てきたから、学びつつということなんでしょうかね。

凪沙:明徳がでてくるのは、自分の中に明徳があることを自覚しなさいということではないかと思います。

帆士:あるといわれても…。

遠雷:子どもの頃から教育されていたら信じられるのでは。

秋実:自分の中に明徳が有るというのを信じて生きていける。

凪沙:『大学』で印象に残ったのは、明徳を明らかにする部分と、「徳は本なり、財は末なり」という部分です。

蒼生:昔左翼だったので(笑)、先に『大学』を読んでいたら、そっちにいかなかったかなと。若い頃に何で世の中こんなに悪いんだと感じていて、マルクスの『ドイツイデオロギー』の「一人は万民の為に、万民は一人の為に」とあって、ここに理想社会があるのかと思った。でも違った。もし、最初に『大学』とか『論語』を読んで、きちんと理解していたらと思った。

遠雷:『大学』を一通り読んだが、次に旧本を読むのが良いのではないでしょうか。皆さん、金谷さんのをお持ちですか?

『大学』旧本

第一章

大学之道、在明明徳、在親民、在止於至善、知止而后有定、定而后能静、静而后能女、安而后能慮、慮而后能得、物有本末、事有終始。知所先後則近道矣、

大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しましむるに在り、至善に とど まるに在り。 止まるを知りて のち 定まる有り、定まりて后能く静かに、静かにして后能く安く、安くして后能く慮り、慮りて后能く得。物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。

梅花:『大学』で学ぶべきことは徳を身につけてそれを輝かせることである。民衆が親しみ睦み合うようにすることであり、最高善に止まることである。平静であってこそ物事を正しく考えることができ、最高善に止まるという目標も達成できる。ものごとには根本と末端があり、何を先にして何を後にすべきかがわかるなら、正しい道を得たことになる。

遠雷:朱子と大きく違うのは、民と親しましむるのところ。朱子は民を新たにするという意味で捉えている。民も明徳を明らかにするために日々新たに新生涯に入らしむる。

蒼生:親しむの方がしっくりくる。

帆士:新たにするのほうは、民も含めて全ての人が明徳を明らかにするという考えはあるのだが、治める者としても上からものを言っているような感じがしてしまう。

遠雷:このあとに「親しましむる」という内容は出てこない。日々新たにというところはある。

帆士:それがしたいがために順番を変えたというところがある。

十舟:「赤子を保つが如し」という話が出てくるから、愛情をというのは出てくる、こちらの旧本の「親しむ」のほうがピンとくる。

遠雷:朱子は自分の思想があって、解釈に自分の思想を反映させている面がある。

帆士:それを『大学』によって実現しようとしたというのはある。

丈山:金谷さんの訳だと、親民を民衆同士が親しみ睦みあうとしているが、為政者が民衆に親しむと解釈した方が自然かなと思う。

帆士:民を自分として捉えたらそうなんでしょうかね。『大学』の中の至善に止まるというのがさすがだなというか。どんな善なのと思う。

梅花:最高善という意味ですもんね。

遠雷:第三章に具体的に書いてある。

帆士:『大学』は、民にも己にも、最高の善を求めていた人が書いていたのだなと思いますよね。「静かに」してを2回繰り返している、「慮りて」というのも2回。感動的ではある。これをどんと言ってしまうというのが。旧本の方が胸に迫るところがあるというか。

遠雷:朱子のほうは最初に解説があってなかなか本文に入れない。

帆士:ここまで拘ったからこそ、『大学』と『中庸』の意味があるというか。

遠雷:儒教の考えがすごく反映されているものとして読むべきものという感じがする。孔子様の言葉と通じるところがある。こちらのほうが系統立ててある。これを読んでから『論語』を読むと発見があるのでは。

帆士:「詩に云う」というのも、より感覚的に感じとるということなんでしょうかね。

遠雷:私は『大学』の中で印象的なのは切磋琢磨の中でじわっと感じる。

帆士:そういう意味で詩を使っているんだと思うんですよね。

十舟:詩だと中国語でも日本語でもうまく訳してくれていると言葉のリズムでイメージや理解がしやすい。

古之欲明明徳於天下者、先治其国、欲治其国者、先斉其家。欲斉其家者、先脩其身、欲脩其身者、先正其心、欲正其心者、先誠其意、欲誠其意者、先致其知、致知在格物、物格而后知至、知至而后意誠、意誠而后心正、心正而后身脩、身脩而后家斉、家斉而后国治、国治而后天下平、

古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を ととの う。その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を きわ む。知を致むるは物に格(至)るに在り。物格りて后知至まる。知至まりて后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身脩まる。身脩まりて后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まりて后天下平らかなり。

一期:昔の良い時代に聖人の方々の徳を発揮し、世界を平和にしようとし、まずその国をよく治めた。そしてまずその家を和合させた。和合させようとした人は、まずわが身をよく修めた。わが身をよく修めようとした人は、まず自分の心を正した。自分の心を正そうとした人は、まず自分の意念を誠実にした。自分の意念を誠実にしようとした人は、まず自分の知能を十分におしきわめた。知識をおしきわめるにはものごとについて善悪を確かめることだ。ものごとの本質が極められてこそ、さっきの逆のことが実現する。

遠雷:格物のほうは物事の善悪を確認する、致知は、知能(道徳的判断)がおしきわめられる。これもよくわからないんですが、どうですか?

帆士:「明徳を天下に明らかにせん」というのはどういうことですかね?

遠雷:もうすでに完成した人から始まっている。そういう人は、天下を平らかにしようとするので、そこから始まっている。しかし、もともとは自分の心を正すところから始まっている。ここで語られているのは、堯舜のような方では。

帆士:古の道を広められようとしたのは、孔子様のことか。孔子様はそう思われていたと思う。自分を修めるのは当たり前のことで、逆パターンで自分を修めることになっている。

備後:旧本では確かにさっと書いているけど、要は格物致知が もと というのが主旨ですよね。「格物とは善悪を確かめること」、と、ここに書いてあるけど、それではやや短絡的な気がします。

凪沙:「格物」は、物の道理を把握する、真理を把握するというイメージがあります。

遠雷:宇野さんは、六芸だと書いてあった。

帆士:それは手段でしょうと思う。それをいうと、格物もそうか。

備後:格物が本、ということだが、格物とは自然哲学のイメージがある。これが先ず最初であってほしいと思う。

遠雷:学ぶと考えるが、両方ないといけないと『論語』にはあった。

備後:それで「格物」考え学んだ次の段階に、「致知」のイメージで瞑想が来てほしい。

遠雷:朱子は仏教の影響を受けているので、瞑想していたと淳寛さんはいっていた。

(補足:儒教の瞑想法として宋代より静坐を重視。江戸の儒者たちも実践していた。帆士さんの指摘のように、朱子は仏教の禅の座禅を思考を断絶するものだとして退け、しっかりと意識をもちながら心の安静な状態を維持するものを静坐とした。「朱子は又、学者に教ふるに静座を以てせり、其の説に曰はく、静座は是れ坐禅入定の如く、思慮を断絶するに非ず、只此心を収斂して煩思慮に走らしむることなきのみ、然る時は此心湛然として無事、自然に専一なり、其の事あるに及んでは、事に随て事に応ず、已む時は復た湛然たり。」)

帆士:仏教は自分を無くしていったが、朱子は自分はあるんでしょう。

牧田:自然科学に照らし合わせてものを考えてみるが、どうしてそうなるのか、何故なのか分からない、ぶち当たる壁があると思う。これは絶対に人間の技ではないというか人智を超えたものでしかないと思うし、本質と言うか、格物致知はこれを言ってるのではないのかと思う。

備後:小学校低学年頃の感覚で似たようなことはあった。水は4度が一番重いとか!すごい感動したことを覚えている。あまりにも絶妙で意図的に作られた意思のようなものを感じた。話が出来過ぎてるでしょう、みたいな感覚。光合成のところでも同じような感覚で凄い感動した。えーっ、植物って人間と丁度逆なの?二酸化炭素吸うの!!って。うわーこれ、絶対神様がやっているよと思った。意図をもって作られた感があった。

蒼生:う~ん、植物の話の方が感動するかな(笑)。子供の頃、全てのことがうまくできているというか、何等かの「理」のようなものがあるのだろうなという感覚はあった。

(補足:「格物致知」の次に何故「意誠」となるのかがずっとピンと来ませんでしたが、後で牧田さんや備後さんの発言を読み返し考えていて腑に落ちるものがありました。うまく言えませんが、昔の中国で言えば科学は発達していませんでしたが、自然の事物を通して天の存在、天理ということを識るということがあっただろうと思います。旧本の「格物致知」はそういうことではなかったかと。そこに至れば、人は自ずと意を誠とすることを求めただろうと思いました。そのあとの「意誠而後心正、~」も至極自然な流れで、「修身」はとてもレベルの高いことを言われていると思います。『大学』の二回目の学習で皆さんの意見から自分なりの理解を持てました。ありがとうございました。)

遠雷:そんなこと考えたことなかった。世界の果ての向こうってどこだろう?時間の始めの前はどうなっているのか?とかを考えていた。

帆士:生まれる前ってどこにいたの?とか自分がいないってどういうこと?とか思った。

備後:不思議でしょ。水は4度が重いんですよ。普通熱いお湯が軽いでしょ。お風呂とか上が熱くて下が冷たい。でもそしたら水は底から凍るでしょ。でも実際は表面から凍る。ほんと、小学校の理科で習った時感動した。底から凍ったら、海とか底が氷になっちゃって溶けなくて絶対困るなあとか思って。ところが実際は例外的に4度が一番重い。こんなの在り得ない、絶妙で出来すぎてて素晴らしすぎる!って。

遠雷:それが格物致知?自分の持っている物をより一層高めていけば、自分になかったものを取り入れられていく。

帆士:本来持っている物を更に磨けば、至福な自分になれる。

秋実:汚れたガラスを磨いたら中に輝いていたものがパーンって出てくるというイメージ。いっぱい色々なものがくっついているのを取っていく。

蒼生:この章を読んでピンと来るのは「誠」なんですよね。『詩経』で言われている「思邪なし」に通じる誠。

凪沙:学んだ知識を繋ぎ合わせて考えたつもりになっている。自分で導き出したわけではない。地に足がついた安定感のある思考ではなくて不安がある。頭の中で作り出した人工的な考えにすぎない。

帆士:思考でやりきれていないというのだから、我々は既に知っていると思う。

遠雷:次回は、二章を読もうと思います。

以上