東洋哲学研究会

2017.05.28

『大学』旧本第一章~第五章

論語勉強会議事録

2017年5月28日(日)

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』旧本第一章~第五章を学びました。

テキスト『大学・中庸』 金谷治訳注


概要

前回から、『礼記』の中にあった「大学」(旧本)を読み始めています。

旧本の第一章は、大学章句の経一章に該当します。今回はその後半から読みました。第一章前半にあった「物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。」は、「大学」に一貫している考えです。その意味を理解することなくして、『大学』を理解することはできないのかもしれません。

第一章後半には、「天子より以て庶人に至るまで、 いつに是れ皆身を脩むるを以てもとと為す。」とあります。身を修めることなくして、家が調和し、国が治まり、天下が平らかになるということはないということです。「もとを知ることが、知のきわまり」ともあります。本を知り、本を正し、本を修めていくことが道理にかなった方法と理解しました。

旧本の第二章は、大学章句の伝首章~伝六章に該当します。朱子はここで大きく順番を並び替えています。旧本は、大学章句の伝六章、伝三章後半、伝首章、伝二章、伝三章前半、伝四章という順番になっています。つまり、もともと「意を誠にする」から始まっていました。今回旧本を読んだ感想として、旧本の方がすんなり読めるという意見が圧倒的でした。この順番でこの文脈でまとめて読むことで浮かび上がってくるものがありました。一方、朱子が章を並び替え、「大学」の中で説かれている「三綱領八条目」を浮彫にしたことによって、より精緻に解釈され、より明確に理解されるようになった面があるようにも思われます。

第二章 人は意を誠にし、自分を欺くことがなければ、本能的に美醜をかぎ分けるように、善悪を感じとることが出来る。だからこそ君子は独りを慎み、自ら恥じることのないよう自分を律する。一方、小人は人目がないところでは悪事をはたらき、君子に対しては悪事を隠し、善を見せようとするが、それはあえなく見通されてしまう。曾子様は、自らの規範に従うだけでなく、人から指摘されることのないよう、戦戦兢兢と自分を戒め、律しておられた。

衛の武公は、切るが如くみがくが如く、学問によって知を磨き、つが如くるが如く、徳性を修め、たゆまぬ努力を重ね、その結果、慎み深く、麗しい威儀を備えるに至った。武公のように盛徳至善の君子のことは、民はこれを愛慕し忘れることが出来ない。

歴代の聖王、周の文王・殷の湯王・堯帝は、みな明徳を明らかにしようとされた。君子は、修身においても、治国においても、日々新たに進歩し続け、至善を尽くしておられた。

人は、その止まるべきところ(至善)をわきまえている。人の君としては仁に止まり、人の臣としては敬に止まり、人の子としては孝に止まり、人の父としては慈に止まり、国人と交わる時には信に止まる。

君子が徳を明らかにし、民の心を畏服せしめ、おのずから恥じるに至らしめ、訴えをなくすこと。これが「本を知る」ということである。

第三章から第五章は、旧本も大学章句も同じ構成・内容です。ここに語られている内容は、在家にあって修行をしている私たちにとって日々遭遇する身近な状況であり、そこでどう自分の心を磨いていくのか、どう生きるべきか、春秋館で学んでいる行法(自観法)・教えを振り返ることが出来ました。

第三章 ここでは、感情に支配されることで、正心を得ることが出来ないと語られています。

第四章 身を修めるとは、一方に偏ることなく、中庸たるべきことを確認しました。

第五章 孝・弟・慈の道徳を実践できる者が、よく国を治めることができるということを確認しました。 

議論

第一章 3

自天子以至於庶人、壱是皆以脩身為本、其本乱而末治者否矣、其所厚者薄、而其所薄者厚、未之有也、此謂知本、此所謂知本、此謂知之至也、

天子より以て庶人に至るまで、いつに是れ皆身を脩むるを以てもとと為す。その本乱れて末治まる者は否ず。その厚かる(可)き者薄くして、その薄かる所き者厚きは、未だこれ有らざるなり。此れを本を知ると謂い、此れを知のきわまりと謂うなり。

謙二:根本がないのに末端(国や天下)が治まっていることはないと解説されている。第一章の最後ですが、本と末について書かれている章。

遠雷:修身を本となすと言っている。これが乱れると末が治まらない。

謙二:「厚かるべきもの薄くして」とは、自分がしっかりやるべきこと、自分の身を修めることをせずに国家を治めることはできないということ。

帆士:自分で力を入れなければならないところに力を入れるというのは、それがどこかがわかっていないとわからない。好き嫌いでやっている人にはわからない。

遠雷:厚くするところがどこかを理解していなければならない。厚くすべき所は身を修める。薄かるべきところはわかりにくい。

謙二:優先順位が高いところはやらなければならないということでは?即ちまずは身を修める。家を斉えること。

秋実:個人が修まり、国が治まりという順番だということ。

十舟:根本は我が身を修めるということ。

謙二:大学というくらいだからまずは基本を学び行ない卒業して次へ行く。

遠雷:家庭というより、自分の身を修めるということで読んだほうがいい。

備後:諸橋さんがしている解釈は、限定的に過ぎる感じがする。

遠雷:宇野さんはどういう解釈?

謙二:宇野さんも同じ考え方。

備後:大学的だと思う。

遠雷:宇野さんも諸橋さんも、厚きを家と解釈している。

第二章 1

所謂誠其意者、毋自欺也、如悪悪臭、如好好色、此之謂自謙、故君子必慎其独也、故君子必慎其独也。小人閒居為不善、無所不至、見君子而后厭然揜其不善而著其善、人之視己、如見其肺肝然、則何益矣、故君子必慎其独也、

曾子日、十目所視、十手所指、其厳乎、富潤屋、徳潤身、心広体胖、此謂誠於中、形於外、故君子必誠其意、

謂わゆるその意を誠にすとは、自ら欺く毋きなり。悪臭を悪むが知く、好色を好むが如する、此れを自ら こころよく(慊)すと謂う。故に君子は必ずその独を慎しむなり。 小人閒居して不善を為し、至らざる所なし。君子を見て、而る后厭然としてその不善をおおいてその善を著わす。〔然れども〕人の己れを視ることその肺肝を見るが如く然れば、則ち何ぞ益せん。故に君子は必ずその独を慎しむなり。

曾子日わく、「十目の視る所、十手の指さす所、其れ厳なるかな」と。富は屋を潤おし、徳は身を潤おす。心広ければ体もおおいなり。此れを中に誠なれば外にあらわると謂う。故に君子は必ずその意を誠にす。

村雨:素直に読めば良い気がします。「意を誠にす」とは自らを欺くことがないということ、内面が誠実であるかどうかは自ずと表に現われるものである、ということを言っているのだと思います。

遠雷:朱子の解釈と異なるところ。朱子のだと先の伝六章の「誠意を釈す」で出てくる。旧本では最初に誠意が出てくる。意を誠にするとは、自分を欺くことがないこと。感覚的に、本能的にそれを欺くことがないことをこころよくすと。金谷さんが好色を美しい色としているのが諸橋さんの解釈と違う。

帆士:女性と言っているのでは?

蒼生:違うと思う。金谷さんも赤塚さんも「美しい色」「よい色」としていますが。

帆士:女性を色と言うから、そうかと思った。

遠雷:論語を読んでいるとき、好色をそのように(色を好むと)捉えた。

帆士:臭いにおいは皆嫌じゃない?だから色は本能的なことを言っている。

十舟:色なら、花とかもある。臭いにおいに対して。

遠雷:好色といえば、色を好むで自然ではないかと。

小鳥:女性も含めて広い意味で美しい色でよいのでは。好き嫌いでの好きの方に惹かれるというので良いと思う。

蒼生:色は中国語では美貌という意味もある。

耕大:快いものを見れば惹かれるし、嫌なものをみれば嫌うしというので良いのでは?

遠雷:ここでは慎独が大事だと思う。君子は一人でいる時にも慎んでいる。

帆士:ここの「人々」とは誰なのか?大学は優れた人が書いたという感じが凄くする。

遠雷:大勢の人の判断するところは間違いがないということも言えるのでは?

帆士:小人は悪いことをしても隠せると思っているが、君子は隠せないことを知っている。

蒼生:(君子は)意識しているのが人ではないから、天だから。だから独を慎むなのだと。

秋実:いつでもお天道様が見ているよ、に通じている。

備後:肺や肝臓まで見られている、って表現ですね。

秋実:自分を誤魔化せると思っているのが小人。

帆士:これは小人と君子の大きな違いだと思う。

第二章 2

詩云、瞻彼淇澳、菉竹猗猗。有斐君子、如切如磋、如琢如磨、瑟兮僴兮、赫兮喧兮、有斐君子、終不可諠兮、如切如磋者、道学也、如琢如磨者、自脩也、瑟兮僴兮者、恂慄也、赫兮喧兮者、威儀也、有斐君子、終不可諠兮者、道盛徳至善、民之不能忘也、詩云、於戯、前王不忘、君子賢其賢而親其親、小人楽其楽而利其利、此以没世不忘也、

詩に云う、「彼のくまるに、菉りょく猗猗いいたり。有斐ゆかしき君子は、切るが如くみがくが如く、つが如くるが如し。しつたりかんたり、かくたりけんたり。有斐しき君子は、終にわするべからず」と。切るが如く瑳くが如しとは、学ぶを道うなり。琢つが如く磨るが如しとは、自ら脩むるなり。瑟たり僴たりとは、恂慄じゅんりつなるなり。赫たり喧たりとは、威儀あるなり。有斐しき君子は、終に誼るべからずとは、盛徳至善にして、民の忘るる能わざるを道うなり。

詩に云う、「於戯ああ、前王、忘れられず」と。君子はその賢を賢としてその親を親しみ、小人はその楽しみを楽しみてその利を利とす。此を以て世をうるも忘れられざるなり。

小鳥:『詩経』衛風の淇奥編を引用し、君子のすばらしさを語っている。金谷さんの解説によると「切りこんだうえにやすりをかけるよう」とは、人について学ぶこと、「たたいたうえにすり磨くよう」とは、自ら反省して修養すること、「慎み深くみやびやか」とは、内に省みて恐れかしこむこと、「はれやかに輝かしい」とは、気高く礼儀正しいありさま。「ゆたかな才能の君子は、いつまでも忘れられない」とは、「盛んな徳をそなえて最高の善に落ち着く人は、民衆にとって忘れることができないというのである。」と書かれてあります。また、前の代の王たちのことは忘れられないとあり、君子はここでは為政者と書いてありますが、君子たる為政者を民が忘れられないと愛していたことが書いてある。

遠雷:朱子は伝三章の至善に止まるに配している。切磋琢磨。とても心に響いてくる。学び、自分の徳性を修養している姿。気高く礼儀正しい姿が書かれている。

謙二:論語の学而でも、孔子様のお答えに対応するように子貢兄が切磋琢磨を吟じ、孔子様から「初めて共に詩を言うべきものなり、これに往を告げて来を知るべきものなり」と評されていました。これだけの背景を読むと、感激というか、詩を持ち出して今言うべきことを言っている。ひとつのやりとりだが、歴史的背景を持ち出して味わいを深めることを感じる。

遠雷:あのやりとりがもっと深く感じられる。

備後:繋がっているからいいですよね。自ら修むるなり、とかの表現で、切磋琢磨のイメージが深まる。

遠雷:慎み深い、畏るるが如き状態に戒めている。すばらしい内容。

帆士:後半はどうでしょうか?

遠雷:文王(武王も?)のことだと思うんですけど。君子は君子なりに文王のことを忘れず、小人は小人なりに忘れない。

帆士:「君子はその賢を賢としてその親を親しみ~」、ここからの意味ですが、よく分からない。

遠雷:諸橋さんは、「親しむべき所を親しむべきものとして認めている」と解説している。

帆士:よくわからない。金谷さんのも(補足:君子(為政者)は王たちが賢者とした人を賢者として敬い、王たちの身内の人を身内として親愛するの釈)よくわからない。前のとどう繋がるかがわからない。

遠雷:誠意の話の中でこれが語られているので、ここで出てくるのは徳を修められた人たちで親しむべき所とは徳を修めた人に親しむことではないでしょうか。

秋実:帆士さんが言っているのは楽しみを楽しみとして、その利を利とすというのがわからないのでしょう?私もよくわからない。

帆士:楽しむとは恩恵を楽しむ?利益とするのは恩恵を?いまいちわからない。

遠雷:小人にとっては、前王が残してくれたのを楽しみ、利する。

帆士:前半の話はその優れた王がどのように素晴らしかったかを詩を通して述べているが、君子と小人の違いを述べていると思うのだが?

遠雷:「その賢を賢としてその親を親しみ」とは、こういう素晴らしい人に親しむということ。

小鳥:君子は為政者で小人は万民ということと金谷さんの本には書いてある。

帆士:いまいちよくわからない。

遠雷:「親」は身内ではなく、親しむ人という人。人によって親しむところが違う。金谷さんの血縁の和合というのは私はピンと来ない。

帆士:論語で身内を大事にせねばならないというのがあった。どの箇所か忘れたが、周公が身内より賢臣を登用し、叔父だったかが、乱を起こした話。それに通じるのか?

遠雷:金谷さんは為政者と庶民と捉えている。私は君子と小人と捉えたほうが良いのではと思う。

十舟:(それぞれが)「前王を想い」君子は、前王の賢いところに親しみ、小人は前王の時代の楽しかったことを楽しみ利を収め、忘れない。ということかと。

秋実:「文武は既に崩ずるも後人をして永く思慕して忘るる能わざらしむる所以は、けだし前王よき模範を垂れて子孫に遺したまえるが故に、後の君子はその賢を賢として遺法に従い、祖先なるが故にその親を親として永くこれを尊敬する。百姓は又前王の余沢によりて、太平の楽を享け、各々その業に安んずるの利あり。君子小人皆前王の恩沢を受くることかくのごとく大である。故に後の人これを思慕して、その人既に没すれども永く忘れざるのである。」(宇野氏の解説)この方がすっと入ってくる。

帆士:君子は優れた徳とかに興味が行くが、小人は恩恵を受けたところに気持ちがいくということ?

秋実:宇野さんの訳のほうがすんなりわかる。

備後:諸橋さんの解釈が端的。君子は前王の賢や親の意義を理解してそれを認めると。そして「小人は君子のようにそれらを理解できないけれど」、前王の遺してくれた楽しみや利を享受する、旨あります。なお、前段の賢や親を理解するのは、君子という解釈と君主という解釈に微妙に分かれていますが、君子の方がピンとくる。

遠雷:徳のある人を皆忘れられないんだということですね。

第二章 3

康誥曰、克明徳、太甲曰、顧諟天之明命、帝典曰、克明峻徳、皆自明也、

湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新、康誥曰、作新民、詩曰、周雖旧邦、其命維新、是故君子無所不用其極、

詩云、邦畿千里、維民所止、詩云、緡蛮黄鳥、止于丘隅、子曰、於止知其所止、可以人而不如鳥乎、詩云、穆穆文王、於緝煕敬止、為人君止於仁、為人臣止於敬、為人子止於孝、為人父止於慈、与国人交止於信、

康誥こうこうに曰く、「く德を明らかにす」と。大甲たいこうに曰く、「天の明命をおもただす」と。

帝典に日わく、「克く峻徳を明らかにす」と。皆自ら明らかにするなり。

湯の盤の銘に日わく、「まことに日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」と。康誥に日わく、「新たなる民を作せ」と。詩に日わく、「周は旧邦なりと雖も、その命は維れ新たなり」と。是の故に君子はその極を用いざる所なし。

詩に云う、「邦畿ほうき千里、れ民の止まる所」と。詩に云う、「緡蛮めんばんたる黄鳥は丘隅に止まる」と。子日わく、「〔黄鳥すら〕止まるに於てはその止まる所を知る。人を以てして烏に如かざるべけんや」と。詩に云う、「穆穆たる文王は、於、緝熙あきらかに止まるところをつつしむ」 と。人の君たりでは仁に止まり、人の臣たりては敬に止まり、人の子たりては孝に止まり、人の父たりでは慈に止まり、国人と交わりては信に止まる。

梅花:康誥篇では文王さま、太甲篇では湯王さま、帝典篇では帝尭さまいずれも自分の徳を輝かせたことを述べてあり、湯王の水盤に日ごとに新しくなれと記されてある。周は古い国だが天命降ろされたのは新しい、そこで君子は最高善に従っていく。詩経では民衆の止まる所と、黄鳥は止まるべき所を弁えている。人でありながら弁えないで良いのか、文王様は止まるべき所に慎んでおられる。人の君としては仁愛の徳に、臣は敬慎の徳に人の子は孝行の徳に、父としては慈愛の徳に止まりそれを標準とし、人々との交際では信義の徳に止まってそれを標準とする。こうして意念を誠実なものにしてゆく。

遠雷:ここは朱子の解釈では、伝首章の明徳を明らかにすると、伝二章の新民を釈すと、伝三章の至善に止まるの前半までになります。

帆士:至善って、どのようなものなのでしょうか。

遠雷:「人の君たりでは仁に止まり、人の臣たりては敬に止まり、人の子たりては孝に止まり、人の父たりでは慈に止まり、国人と交わりでは信に止まる」具体的に書いてある。善はその場その場に応じて最適な対応をすること。

帆士:至善であるからこそ、そのような行為を為す。その境地、どのような心でいるか。

遠雷:相手との関係性において最高の善がそれぞれある。

帆士:至善という在り方を知りたい。

蒼生:朱子は明明徳と言っています。

遠雷:明徳を明らかにすることによって可能になる。それはもともと備わっているもの。朱子だと四徳だが、五常のことではないか。明徳を明らかにすると、その時に応じて最適な振る舞いができる。

帆士:もう少し考えてみようかなと思います。

凪沙:さっきの「切磋琢磨」の詩は、朱子の大学章句では、なぜか第三章の止至善に並び替えてしまってますね。古い方がすんなり読める気がします。

遠雷:朱子は(三綱八条の)体系に従って、全部整理して並び変えた。

凪沙:「切磋琢磨」は、旧本の意を誠にするの話の流れの方が自然な感じ。

遠雷:普通に誠の中に入っているから。

帆士:誠だから切磋琢磨だという気がする。誠意が表れるってどういうことか、そう読み取れる文章。

遠雷:至善に止まるとこうですよと読み取れる。朱子によれば至善に止まる人はこういう人達と説明している。

耕大:孔子様が仰った、「鳥でさえ自分の止まるところを知っているではないか」というお言葉。この感覚はいいですね。

遠雷:本来人間の止まるところがあるということを言っている。

耕大:自ら欺くこと毋れ、悪臭を憎むが如く、好色を好むが如く、素直な思いで生きること。それが誠ではないか。そういう誠の思いで生きていくことで、自分が止まるべき場所が自然に身につくのではないでしょうか。

遠雷:本来自分の持っているものであるから。

第二章 4

子曰、聴訟吾猶人也、必也使無訟乎、必也使無訟乎、無情者不得尽其辞、大畏民志、此謂知本、

子曰く、「うったえを聴くは吾れも猶お人のごときなり。必ずや訟なからしめんか」と。

まこと なき者にはその辞を尽くすを得ざらしめ、大いに民の志を畏れしむ。此れを本を知ると謂うなり。

牧田:孔子様が仰るには訴訟を裁く上で他の人とは変わらない、違いを言えば訴えごとを無くさせること。不誠実な者には偽りの申し立ては無駄だと悟らせ誠実になるよう民衆の心を強く引きしめられた。今日学んでいる誠意を述べられている章で根本を弁えましょう、ということです。

遠雷:論語の中にあった言葉。大学の中では誠意の文脈で語られています。その通りとしか言いようがありませんが、訴訟の無い世の中にしていくのが理想。

杜若:訴訟のことを通して、そもそも何が大事で、どうしていくべきなのかということを言われていると思います。

遠雷:訴える人も誠になるようにと言われているのですよね。

第三章

所謂脩身在正其心者、身有所忿嚏、則不得其正、有所恐懼、則不得其正、有所好楽、則不得其正、有所憂患、則不得其正、

心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味、此謂脩身在正其心、

謂わゆる身を脩むるはその心を正すに在りとは、身に忿懥ふんちするところ有るときは、則ちその正を得ず、恐懼きょうくするところ有るときは、則ちその正を得ず、好楽するところ有るときは、則ちその正を得ず、憂患するところ有るときは、則ちその正を得ず。

ここに在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその昧を知らず、此れを、身を脩むるはその心を正すに在り、と謂う。

山吹:「身を修めるには、心を正すこと」を言っています。心が怒りや、恐怖や楽しいこと、心配なことに囚われていると、身の正しさを保つことが出来ない。そのように心が囚われていると、視てもはっきり見えず、聴いてもはっきり聞こえず、食べても味がわからないので、心を正すことの大切さを言っています。

遠雷:ここは朱子の伝七章ですね。これは如何ですか。その通りですが、怒ったりすると正しいことが見えなくなる。

帆士:この反対のことをすると正しく見られるということですよね。

遠雷:反対というと?

帆士:怒らなければ正しく見られる。

蒼生:私もそう思った。

帆士:中庸ということですかね。

遠雷:『大学』にもきちんと(感情に支配されると正しく判断できないことが)書かれている。
一旦怒りから離れることで正しく見られる。

第四章

所謂斉其家在脩其身者、人之其所親愛而辟焉、之其所賤悪而辟焉、之其所畏敬而辟焉、之其所哀矜而辟焉、之其所敖惰而辟焉、故好而知其悪、悪而知其美者、天下鮮矣、

故諺有之、曰、人莫知其子之悪、莫知其苗之碩、此謂身不脩不可以齊其家、

謂ゆるその家をととのうるはその身を修むるに在りとは、人はその親愛する所においかたより、その賤悪せんおする所に之いて辟り。その畏敬いけいする所に之いて辟り、その哀矜あいきょうする所に之いて辟り、その敖惰ごうだする所に之いて辟る。故に好みてもその悪を知り、にくみてもその美を知る者は、天下にすくなし。

故にことわざにこれ有り、曰く、「人はその子のみにくきを知るなく、その苗のおお(大)いなるを知るなし」と。此れを身脩まらざればその家をととのうべからず、と謂う。

杜若:この章では、身を善く修めることについて具体的に言われています。感情が絡む場面において、人はとかく偏ってしまうもので、他人の欠点も長所もわきまえ、公正な判断ができる人はほとんどいないということです。また、諺も引用しながら、その身が修まらないのであれば家を斉えることはできないと言っています。

遠雷:七情に囚われて、偏った行動をしていては家は斉わない。偏った行動をしてはいけない。それができるのは中々いないよということです。「好みてもその悪を知り」は、『論語』にもある、「唯だ仁人のみ能く人を愛し人をにくむ」に対応すると、金谷さんは解説しています。
思惟するということを思い出しました。ここのところを読んで思い出したのですが、すこし違うでしょうかね。

帆士:これができれば無思考にならないですよね。物事を一面的に捉えていないですよね。

遠雷:日本人は自分たちを縛り付けている。

空蝉:ちょっとしたことで、ニュースに書かれるから。

十舟:縛ろうとするのが日本的な傾向。はみだすと潰される。

帆士:進んでくるとそうなりますよね。

小鳥:そうでなくても自己の修養を進めるしかない。

秋実:自分たちがやることはそっちですよね。

遠雷:ここで語られているのは七情。それによって身が修まらない。正しく判断し、適切な行動ができるのが大事。

第五章 1

所謂治国必先斉其家者、其家不可教、而能教人者、無之、故君子不出家、而成教於国、孝者所以事君也、弟者所以事長也、慈者所以使衆也、康誥曰、如保赤子、心誠求之、雖不中不遠矣、未有学養子而后嫁者也、

一家仁、一国興仁、一家譲、一国興譲、一人貪戻、一国作乱、其機如此、此謂一言僨事、一人定国、堯舜率天下以仁、而民従之、桀紂率天下以暴、而民従之、其所令反其所好、而民不従、是故君子有諸己、而后求諸人、無諸己、而后非諸人、所蔵乎身不恕、而能喩諸人者、未之有也、故治国在斉其家、

謂わゆる国を治むるには必ず先ずその家を斉うとは、その家に教うべからずして能く人を教うる者は、これ無し。故に君子は家を出でずして教えを国に成す。孝とは君に事うる所以なり。弟とは長に事うる所以なり。慈とは衆を使う所以なり。康詰に日わく、「赤子を保んずるが如し」と。心誠にこれを求むれば、中らずと離も遠からず。未だ子を養うことを学んで后に嫁つぐ者は有らざるなり。

一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に輿り、一人貧戻なれば一国乱を作す。その機此くの如し。此れを、一言事をやぶ(敗)り、一人国を定む、と謂う。堯・舜は天下を率いるに仁を以てして、民これに従い、桀・紂は天下を率いるに暴を以てして、民これに従えり。その令する所その好む所に反するときは、而(則)ち民従わず。

是の故に君子は諸れを己れに有らしめて而る后に諸れを人に求め、諸れを己れに無からしめて而る后に諸れを人に非そしる。身に蔵する所恕せずして、而も能く諸れを人に喩す者は、未だこれ有らざるなり。故に国を治むるはその家を斉うるに在るなり。

凪沙:この章は「斉家」と「治国」を解説しています。家族を教化できないのに、国を導くことは出来ない。君子は家の外に出ないで、教化を国全体に広げる。親への孝は君主に仕える方法で、目上の人への従順さは年長者に仕える方法で、目下への恵みは民衆を使う方法である。書経に「君主が民を慈しむのは赤子を育てるようなものだ」とある。真心を尽くせば、赤子が求めるものは、当たらずとも遠からずで、わかるものだ。誰も子育ての仕方を学んでから、結婚する人はいない。一家が仁愛に溢れると国は仁が満ち、一家が謙譲の徳に溢れると国も謙譲で満ちる。君主が貪欲なら国は乱れる。君主の一言が事業を駄目にしたり、安定させたりもする。堯帝、舜帝は仁徳があったので、民衆も仁徳を行なった。桀王、紂王は暴君で、民衆も暴虐になった。君子は自分の中に善を備えたならば、民に善を要求する資格ができる。自分の中の悪を取り除いてから、民の悪を非難することができる。自分に思いやりがないのに、他人に思いやりをもてという資格は無いといった内容です。

帆士:ここで述べられている「一人」は、影響力のある君子(君主)のこと?

凪沙:上に立つ者という意味で、次に桀王、紂王が出てくると思います。

蒼生:古本、新注も、「一人」は「人君」の意味です。

帆士:起こすというより、そういう風になっていく。

遠雷:堯舜が仁を以て天を率いたら、民衆もそれに続くんですね。桀・紂が暴をもって率いると、民もすごく暴虐的になってしまうので、社会全体がそうなるということですね。命令する人が好んでいなければ、民はそれに従わない。そのため、君子はまず自分を修めるということですね。

凪沙:子育て学んでから嫁ぐ人はいないという部分が印象的。誰にも明徳が備わっているということだと思います。

遠雷:何でも誠をもってやれば大きくはずれることはない、日常にも繋がること。

以上