東洋哲学研究会

2017.05.14

『大学』大学章句 伝九章~伝十章

論語勉強会議事録

2017年5月14日(日)

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句 伝九章~伝十章を学びました。

テキスト『大学』 宇野哲人全訳注


概要

『大学』大学章句より、伝九章と伝十章を読みました。

伝九章 「その国を治めんと欲する者は、先ずその家をととのう」について語っています。徳者が国を治める徳治政治を理想とする儒学においては、君主がまず自らを修め、その修得した徳をもって自らの家を斉えることが治国の土台となることが説かれます。君主が家の中で、孝をもって親に事え、弟をもって兄に事え、慈をもって子を慈しむことが出来れば、国にあって国民は、君主の徳に感化されて、忠をもって君主に従い、順をもって長者に従い、我が子を慈しむように衆人を使うことが出来るといいます。君主の家が仁であれば、国全体も仁となり、君主の家が譲であれば、国全体も譲となる。しかるに、たった一人君主が利を貪れば、国中みな利を争って乱をなすようになる。君主に恕の心がなければ、民衆を諭すことは出来ない。

古の聖王・堯舜、国を滅ぼした暴虐なラストエンペラー・桀紂を通して、君主の徳が治国の要諦であることを学ぶとともに、家の中で実践される徳(孝・弟・慈)が社会秩序の基盤をなし、家こそが徳を養う修身の場であり、「家斉いて后国治まる」ことが読み取れました。

伝十章 続いて「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治める」について語っています。君主は民衆から仰ぎ見られる身であり、常に慎み、己を推して人に及ぼしおもいやり(絜矩けっくの道、すなわち忠恕)、「民の好むところはこれを好み、民の悪むところはこれを悪みて、よく民心に応じた政治」をすることで国を得、民衆の心を失えば、天命が去り、国を失う。民心に応じた政治とは、民衆に迎合する政治を指すのではなく、君主は自ら徳を慎み、君主の徳に感化された民衆が求めるところの政治を指すと考えられます。

君主に徳があれば、民衆はこれに帰服し、民衆が帰服すれば、領土が広まり、領土が広まれば、財が自然と多くなり、財が多くなれば、国の用が供される。「徳が本で、財は末」であることが説かれます。古典が説く徳を求めることを忘れ、利益のみを追求している現在の風潮に危うさを感じます。

本人は技能がなくとも、才徳ある人を用いることができる人を大臣とすれば、国家は繫栄し、嫉妬にかられ、才徳ある人を用いることができない人を君主が登用すれば、国を危うくすることになると説かれています。「忠信もってこれを得、驕泰きょうたいもってこれを失う」も、現在に通じる教えと受け止めました。

議論

大学 伝九章

所謂治國必先齊其家者、其家不可教、而能教人者無之。故君子不出家、而成教於國。孝者所以事君也。弟者所以事長也。慈者所以使衆也。

所謂いわゆる国を治むるには必ずずその家をととのうとは、その家教うべからずして、く人を教うる者はこれし。ゆえに君子は家をでずして、教えを国に成す。孝はきみつかうる所以ゆえんなり。ていは長に事うる所以ゆえんなり。慈は衆を使う所以ゆえんなり。

希美:国を治めるにはまず家をととの えるということです。家の中で教えが行き届かなければ、人に教えることもできない。君子は家を出ずに教えを世の中に届けることができる。家庭内の親への孝は、外に出たら君に仕えることでこれは忠を表し、家庭内で弟が兄に仕えることは、外では上司に仕えることで従順を表し、家庭内での親の子に対する慈愛は、君が民を使う道で、仁愛ということです。まずは家をととのえることなのだと反省させられます。

春香:政治家というのは、家を治められないようでは政治もできない~ということですが、(現代において)良い政治家はいい旦那さん、でないこともありますよね。

遠雷:企業戦士は家と仕事を両立できないというイメージがあるが、ここで言っているのは道徳的なことですよね。

春香:道徳的なことを言っているというのはわかりますが、例えば、愛人がいるような政治家であっても、(だからといって)政治家としてダメと言えるのか?政治ができることと(良き家庭人と)別、もあるのでは。

謙二:信頼しあえている夫婦ならば、仕事で家を離れている夫がいても妻と役割分担していれば、うまくいくこともある。

秋実:陰陽のバランスではないが、男性の得意とするところ、女性の得意とするところがある。男性が外に向く分、女性の優しさが家を包むというのもある。

謙二:戦後から高度成長期の企業戦士は社会のためにという理念があり、東芝の土光さんは、めざしの土光と呼ばれ、自らは清貧で日本が豊かになることに貢献した。そういう人の思いは奥さんにも伝わる。今の企業経営は金儲けに向いている。そうすると家庭にも伝わらない。

小雪:奥さんが旦那さんの志を理解し、敬意があれば、支えようという気持ちにもなり、うまくいくのかもしれない。

遠雷:家を斉い、国も治め、天下も平らかにするだと、能力的なことではなく、徳のある人のことだと思う。今の私たちからだと家を斉い、国も治めというのは、現代にはピンとこないのかも。

小鳥:時代の違いにもよるのかも。これは女性に向けた言葉ではなく、国を治める立場になる人はというのが前提にあるのでは。家において兄に敬意を持つ人が、外でもできる。

遠雷:徳が問われていると理解すると、自分を修めて、家を斉えてというのが一貫して理解できるのでは?

凪沙:周囲の人と調和がとれない人は政治もできないということではないかと思います。小さな単位でできない人は、もっと大きな単位でもできないということかと。

遠雷:調和ということですが、ここでは上下関係のことを言っているのかなと思います。親に対して、目上の人に対して、子どもに対して、という具合に序列があります。

康誥曰、如保赤子。心誠求之、雖不中不遠矣。未有學養子而后嫁者也。一家仁、一國興仁、一家讓、一國興讓、一人貪戻、一國作亂。其機如此。此謂一言僨事、一人定國。

康誥こうこうに曰く、赤子せきしたもつがごとしと。心まことにこれを求むれば、あたらずといえどとおからず。いまだ子を養うことを学びてしかしてのちする者あらざるなり。一家仁なれば一国仁におこり、一家じょうなれば一国譲におこり、一人貪戻たんれいなれば一国乱をす。その機かくのごとし。これを一言いちげんことやぶり、一人国を定むとう。

山吹:書経の康誥篇に「赤子を保んずるが如し(赤子せきしたもつが如し)」とあり、要するにお嫁入りして子供が産まれて、育て方を教えられていなくても、自然と子供を思う気持ちで育てることができる。誠心誠意ことにあたれば、大きく間違ったこともしない。後半は、天下太平は一家がおさまっているかということを言っている。この章では、一人の人が貪欲な道を走ることによって、一国の乱をなすことにまでつながる。昔の言葉に「一言の失は事をやぶるに足り、一人の正は国を定むるに足る」とあります。前半で、本当に教わって子供を育てている訳ではなく、目の前の子供がかわいくて一生懸命やっている。ここの表現がなるほどそうだと思わされた。誠の心が大事だと思いました。

遠雷:それが国に通じるというのだから、万事が誠心誠意をもってやれば、間違いがあったとしても、大きく外れることがない。何事に就いても知識が重要視される現代だが、そうではなく誠心誠意やれば答えがでる。

小雪:そこに愛があるかということも問われる。

春香:子供を育てるのに、「誠意をもって」とか、そんなこと考えて子育てしていませんでした。ただ子供のために一所懸命やっていた。一所懸命。それだけです。教えられなくても、一生懸命育てるという気持ちがあったのは、(女性性というか、本能とか)、学校では道徳の時間があったし、家庭では悪いことすると罰が当たるよなどと言う、そういう下地というか、環境だったから、かもしれません。

梅花:子供を育てている時は、無我夢中。その子の様子を見ながら育てていたような気がしますが、いつの間にか育っていた。

秋実:教えられてわかる、そんな人はいないというのが響いた。

遠雷:自然にわかるのでしょうね。

秋実:まずできないという答えを出してはいけない。子供を見ないでスマホ見ていたり、遊びに行ったり、そういうのと繋がるのかなと。

遠雷:道徳心は元々あるが、教育などで教わらないと芽生えてこないのだろうと思う。始めからできるのは相当高い人で、普通の人は教えられないとできないのではないでしょうか。

蒼生:この章では、母が赤子を愛すことは自然にそれができるものが備わっているということで、作為する必要なく、同様に人君が民を使うに慈しむ、君や目上に仕える孝悌についてもそれができるということを言っているのですよね?

遠雷:元々備わっているけど、教育でそれを目覚めさせないとできないということではないでしょうか。

山吹:子供を必死に育てている時は、相手のことだけを思ってやっている。自分は眠たくても子供が泣いていれば世話をするとか。その気持ちを広げていけば良いと思いました。

小鳥:対比されていて母にとっての子が、国を治める人にとっては人民なのだと思う。

遠雷:後段では、一人の人の影響が大きいのだと言われている。『論語』の「一日己に克ちて礼を復まば、天下仁に帰せん」のところでどういうことかと思ったが、『大学』で、一人の人の影響がどれほど大きいか書かれているのを読み、納得した。

秋実:私くらいというのがいけない考えだと感じた。

遠雷:だからこそ徳のある人がトップにいる必要があるのを思う。

謙二:為政第二の「子曰く、政を為すに徳を以って行えば、譬えば北辰のその所に居て衆星のこれに向かうが如し」が思い出されます。

遠雷:もっとも影響力のある君を中心に動くということ。

秋実:道に迷ったときは北極星を見つければ、方角がわかる。

遠雷:『大学』を読むことが、『論語』の理解にも役に立つのだと思う。

堯舜帥天下以仁、而民從之。桀紂帥天下以暴、而民從之。其所令反其所好、而民不從。是故君子有諸己、而后求諸人。無諸己、而后非諸人。所藏乎身不恕、而能喩諸人者、未之有也。故治國、在齊其家。

堯舜ぎょうしゅん天下をひきいるに仁をもってして民これに従う。桀紂けつちゅう天下をひきいるに暴をもってして民これに従う。そのれいする所その好む所に反して民従わず。このゆえに君子これを己にゆうしてしかしてのちこれを人に求む。これを己に無くしてしかしてのちこれを人にそしる。身にぞうする所じょならずしてこれを人にさとす者は、いまだこれらざるなり。故に国を治むるはその家をととのうるにり。

秋実:理想的な政治をした堯舜は身をもって天下を帥いるに仁をもってしたので、万民皆これに従い、桀・紂は身をもって天下を帥いるに暴虐をもってした。君子がその身に本当に思っていなければ、国を治めることができないと仰っていると思う。仁を以て治めることは出来るが暴力では治められないということだと思う。暴力は暴力にしかならないということ。

遠雷:堯舜は有名な聖人。桀は夏王朝最後の王で、紂は殷王朝最後の王。天下を治むるに暴虐を以てした。それでは人も互いに相凌ぎ相欺く。元々心に恕がない人は人を諭すことはできない。人の上に立つ人は己に厳しくなければならない。人民は鏡のように、人君の心を反映する。

遠雷:この章で言われていることは、誰もが耳が痛い。

謙二:『論語』の「君子は諸を己に求め、小人は諸を人に求む」に通じる。

遠雷:『大学』を読むと、孔子様が語っていらっしゃることの背景が理解できる。少年の反抗も学校の先生に対して、特に一生懸命やっていない先生には、反抗的だったりした記憶もあります。逆に、一生懸命で思いやりある先生のいうことは聞いたりして。

蒼生:子供は欺瞞を見抜きますよね。

秋実:あの先生は違うなど見抜いている。

蒼生:どういう組織でも義とかを重んじるというところに、やはり五常、仁義礼智信というものが本来人に備わっているもので求めるものだというということなのだと思いました。

詩云、桃之夭夭、其葉蓁蓁。之子于歸、宜其家人。宜其家人、而后可以教國人。詩云、宜兄宜弟。宜兄宜弟、而后可以教國人。詩云、其儀不忒、正是四國。其爲父子兄弟足法、而后民法之也。此謂治國在齊其家。右傳之九章、釋齊家治國。

詩に云く、桃の夭々ようようたる、その葉蓁々しんしんたり。この子こことつぐ、その家人かじんよろしと。その家人によろしくして、しかして后にもって国人を教うべし。詩に云く、けいよろしくていよろしと。兄によろしく弟によろしくして、しかして后にもって国人を教うべし。詩に云く、そののりたがわず、この四国を正すと。その父子ふし 兄弟けいていたるのりとるに足りて、しかして后に民これにのりとる。これを国を治むるはその家を斉うるにりと謂う。右伝の九章、家を斉え国を治むることを釈す。

海輝:諸橋さんの解釈によると詩経の文句を例に引いて家庭の良く治まっている人は国民を教えることができるということを説明したものです。当時は国と家が近いのかなと、それが不思議に思えました。現代はマスコミの報道とかで世の中の様子がすぐに分かるが、当時はそういう情報がなくとも分かったのかと。家が国の基本なのかと思いました。

遠雷:家はひとつの社会である。それが国にも当てはめる。家が斉えば、国も治まるということだと思う。

小雪:人格形成の基本が家だから、その性格をもって世の中にでるのだから、そうですよね。

小鳥:子が元々持っているものがあって、親の暴で(親が怖くて)治まっている場合もある。家の方が本性が出る。正すべきはその本性なのだと思う。

遠雷:戦前の家は家長を頂点とした序列があったが、今はなくなった。もっとも敬われるべき人が家の隅にいたりする。

春香:私の実家では、誰かに言われたからではなく、おじいちゃんが一番偉くて、おじいちゃんだけ座る場所が違うとか、一品多いとか。誰かに教えられたわけでもなく、強制されるでもなく、何も言われなくてもそういうのを見て、感じ、自然とおじいちゃんは偉いんだと、おじいちゃんを尊敬していた。

秋実:家の責任を背負っていますからね。

遠雷:そういう時代だった。

秋実:口で教育するとかではなく、そういうことから学んだ。自分もそれがわかる時代に育った。奥さんが旦那さんの悪口をいうのが当然の世の中になった。

蒼生:変な平等主義がある。女が虐げられているとか。

遠雷:この章には大事な言葉、絜矩けっくの道(恕)というのが出てきます。『大学』の中で大事な概念。ここは面白い章じゃないかと思います。絜矩の道について話ができるといいと思います。

大学 伝十章

所謂平天下在治其國者、上老老而民興孝、上長長而民興弟、上恤孤而民不倍。是以君子有絜矩之道也。

所謂いわゆる天下を平らかにするはその国を治むるに在りとは、かみろうを老としてたみこうおこり、上ちょうを長として民ていに興り、上あわれみて民そむかず。ここをもって君子絜矩けっくの道あるなり。

梅花:いわゆる天下を平らかにするはその国を治むるにありとは人君が老者を尊べば民も倣いその父母に孝を尽くす。長者を敬すれば民も倣い兄に弟を尽くす。人君が孤児を哀れめば民も倣い重厚にしてあえて背かず。上行いて下倣うことは人心同じきこと、そこで君子は推して人を度るところの絜矩の道というものがある。次にも出てきますが、自分が嫌だと思うところ、欲せざるところは人に施すこと勿れが絜矩けっくの道。

遠雷:ここで絜矩けっくの道という大事な言葉が出てきているんですけれども、これは、「己を推して人を謀ること」と、宇野さんが書いているのですが、意味わかりますか?諸橋さんは、「己れ自ら実行して、己れを尺度として他人を推す」と書いている。

蒼生:吉川さんは「己の心を定規として人の心をはかり、人の悪むところも己のそれに異ならない、ぴたりと一致する、ということを知れば、己の悪むところを人に施そうなどとはしないであろう」とあります。論語(衛霊公篇)から出ていて、中庸にもあります。

遠雷:『論語』には、「己の欲せざるところは、人に施す勿れ。」とあります。書いてあることは難しくないけど実行するのが難しい。

所惡於上、毋以使下。所惡於下、毋以事上。所惡於前、毋以先後。所惡於後、毋以從前。所惡於右、毋以交於左。所惡於左、毋以交於右。此之謂絜矩之道。

かみにくむ所、もってしもを使うなかれ。下に悪む所、もって上につかうる毋れ。まえにくむ所、もって後ろに先だつ毋れ。後ろににくむ所、もって前にしたがう毋れ。右ににくむ所、もって左にまじわる毋れ。左ににくむ所、もって右にまじわる毋れ。これをこれ絜矩けっくの道と謂う。

遠雷:最初の自分の目上の人の行いを見ていて良くないなと思ったら、部下に対して同じようなことをやるな、と。自分の部下がやっていることで良くないと思うことを上司にやってはいけないなと。自分の前にいる人の行いが悪ければ、同じことを後ろにやってはいけない。自分の後ろの人がやっていることを良くないなということは先行者としてやってはいけない、右にやっている人の行いが良くなければ、左にいる人にやってはいけない。これが絜矩けっくの道。忠恕の恕のことですが、具体的な行動として書かれています。

小鳥:良いことは真似るけど、悪いことは真似をしない、という内容の論語もあったと思います。全てのことに対して、上下横右、全方位ということですね。

春香:悪い伝統や慣習はいつまでも続けてはいけない、と。

遠雷:『大学』の解説でありましたか。この章に書いていることは身近にあることじゃないですか。謙二さん、ここは何かピンと来ません?

秋実:体育会系部活では一年生の時にいじめのように先輩にしごかれた。自分が先輩になった時にはやめたと、ある友達が言っていた。

遠雷:それは良かったのでは?

秋実:秩序が保たれたかどうかは分からないけれど。

遠雷:改めることの判断が難しい。

小鳥:自己修養としては必要なこと、全体の秩序はまた別の問題では。

遠雷:それは後輩を鍛えるということとは違う。後輩を鍛えてあげるというのであれば、残してもいいのでは。

秋実:通じるかな。

遠雷:心もあるかもしれませんね。

小鳥:自分が嫌だなと思っていても上に行ったらやってしまうのが人間の愚かなところ、どうしようもないところ、でもやらないようにしようとする(ことが大事)。

遠雷:それが恕の道。

謙二:どういうこと? ただ自分の好き嫌いではなく、組織の戦略のため必要なことは厳しく伝え実行してもらうこともありますよね。厳しいことは言わないといけない。高みを目指す上で必要であれば言うべきだし。これは、単に自分の好き嫌いではなく大きな目的に為であれば、行わなければならないことがあると思います。

遠雷:根底に愛があるかどうか。こういうことが言われる前提に慎独があって、自分を慎むことができる。

詩云、樂只君子、民之父母。民之所好好之、民之所惡惡之。此之謂民之父母。詩云、節彼南山、維石巖巖。赫赫師尹、民具爾瞻。有國者不可以不慎。辟則爲天下僇矣。詩云、殷之未喪師、克配上帝。儀監於殷、峻命不易。道得衆則得國、失衆則失國。

詩に云く、楽しき君子は民の父母と。民の好む所はこれを好み、民の悪む所はこれを悪む。これをこれ民の父母と謂う。詩に云く、せつたるの南山、いし巌々がんがんたり。赫々かくかくたる師尹しいんたみともなんじると。国をたもつ者はもってつつしまざるからず。へきすればすなわち天下のりくる。詩に云く、いんいまもろもろうちなわざるとき、く上帝に配す。よろしく殷にかんがみるべし、峻命しゅんめいやすからずと。衆を得れば即ち国を得、衆を失えば則ち国を失うをう。

遠雷:南山有台という詩に書かれている内容です。「楽しき君子」の「楽しき」というのは、単に楽しんでいるのではなく、諸橋さんの語釈にありますが、「心常に楽しむという意味で、仁徳を行う人の形容」である。その君子は民の父母である。どういう意味かというと、民が好むところは好み、民の悪むところは悪む。これはその通りなのかなと思いました。「惟だ仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」とありましたので、ここに疑問を感じました。
さて、南山という高い山があって、石が厳々と積み重なっている。この山はすべての人が仰ぎみるもの。それと同様に、高い地位にある周の大師、尹氏に対して、民百姓は仰ぎ見ているんですね。人々が仰ぎみているため、上にいる人は身を慎まなければならない。偏頗な自分の私欲に偏った考えに陥ったら天下の僇となる。身を殺されて国が滅びて天下の屈辱となる。殷は最終的には文王と武王に滅ぼされた王朝ですが、人心を失わずにもろもろを持っている時は、その徳は上帝の徳と相並んでいたと諸橋さんは解説しています。まだその時はよかったわけですね。その後王朝は滅び、後代の者は、殷の国を鑑みて、自分を慎まなければいけない。衆の心を失ったら滅びると言われています。民が好むところ、悪むところを同じくする。高い山を仰ぎ見るように、自らを慎まなければいけない。最後が、殷が滅びたところを鑑み自分を慎みなさいといわれています。上にある人ほど自分を律していかなければいけない。

秋実:厳しいよね。

遠雷:天命によって仁君となるわけですけど、命は移ってしまう。上にいればいるほど己に厳しくなければいけない。ここは宜しいですか。

是故君子先慎乎徳。有徳此有人、有人此有土、有土此有財、有財此有用。徳者本也。財者末也。外本内末、爭民施奪。是故財聚則民散。財散則民聚。是故言悖而出者、亦悖而入、貨悖而入者、亦悖而出。

この故に君子はず徳をつつしむむ。徳あればこれ人あり、人あればこれあり、土あればこれ財あり、財あればこれようあり。徳はもとなり。財はすえなり。本をそとにし末をうちにすれば、民を争わせ奪うを施す。この故に財あつまれば則ち民さんず。財散ずれば則ち民聚る。このゆえにこともとって出づる者は、亦もとって入る。もとって入る者は、亦もとって出づ。

凪沙:この章では徳が一番大切だよと言われています。訳を読みます。「君子は徳を積むことに努める。徳を積めば人々の支持を得られる。そうすれば国土を確保できる。そうすれば財政も安定して、民生も向上する。徳が最も大切で、財は末節に過ぎない。末節を重視してしまうと、人々は奪い合いを始める。上位者が財を独占すれば、庶民の生活が成り立たなくなって離散するが、財を下位者に分けてあげれば、庶民は集まってくる。上位者が道理にはずれた発言をすれば、庶民も同じ発言をする。上位者が道理にはずれたやり方で財を収奪すれば、庶民も同じ方法で財を奪おうとする」。ここで重要なのは、「徳は本なり。財は末なり」という部分だと思います。

遠雷:義を持って得なければ自分はそれを求めない。それに通じるかなと。正しからぬ方法で財を手に入れても、その財産はすぐに出て行ってしまう。悪銭身につかず。

蒼生:こういう儒教の経本で財の話が出てくるのが印象的です。

遠雷:この後、財の話が出てきます。

康誥曰、惟命不于常。道善則得之、不善則失之矣。楚書曰、楚國無以爲寶、惟善以爲寶。舅犯曰、亡人無以爲寶、仁親以爲寶。

康誥こうこうに曰く、めい常においてせずと。善なれば則ち之を得、不善なれば則ち之を失うをう。楚書そしょに曰く、楚国はもって宝と為す無し、だ善もって宝と為すと。舅犯きゅうはん曰く、亡人ぼうじんもって宝と為す無し、しんを仁するもって宝と為すと。

謙二:三つを引用していて、吉川さん曰く、上に文王の詩を引いて「衆を得れば国を得、衆を失えば国を失う」といったそれを繰り返している。善とはまさにそれであると。天命という重大なテーマにかかわっているから繰り返しているとされています。二節は、楚書は現代は残っていないのですが、善を自分の宝とすべしと言っています。三節は、晋の文公の伯父に当たるところの舅犯の言った事です。自分は何も宝と為すべき物を有たない。ただ、親しむべき人に対して愛情をもち親しみ大切にして行くという、それを自分の宝とすると。それぞれ、人の宝は財ではなく徳である。財ではなく人の道であると言っています。

遠雷:ここは、面白いところで昔の逸話が関わってくるところですね。謙二さんこの逸話部分わかりますか?

謙二:詳細?なんでしたっけ。

遠雷:宇野さんのところに書いてあります。諸橋さんの132ページにもあります。それによると「秦は楚を打とうとして使いをして楚の宝器を観しめた。」観しめたというのはどういう意味か正確にはわかりませんが、しかし、「楚の昭奚恤しょうけいじゅつは、宝器は臣に在りといって、三人に会せたので、秦の臣は驚いて帰国してから、秦王に「楚は賢臣多し、未だ謀る可からず」と伝えた。」賢臣をすごく重んじ、賢臣こそが宝物だと思っていた。

山吹:そういう人が揃っているからすごい。

遠雷:舅犯きゅうはん の方は、晋の文公の舅で、文公は当時重耳と言われていて、驪姫の讒を避けて亡命していた。その時、自分の父である献公が亡くなった。秦の穆公から、この機に乗じて兵を起こして晋に入って、君になったらどうかと勧められたが、重耳の舅にあたる舅犯が「富貴をもって宝とせず、親に仁愛なるを宝とする」と、重耳に言わせた。この三つの文章は、人間の真の宝は、財用ではなく、徳であるということを教えたものである。その例として楚国と舅犯の話が出てきていますね。

蒼生:舅犯の話はいいですよね。

遠雷:人の道を離れた形で財産を得てはいけない。

山吹:どうしてこうなっちゃったのでしょうね。

秦誓曰、若有一个臣、斷斷兮無他技、其心休休焉、其如有容焉。人之有技、若己有之、人之彦聖、其心好之。不啻若自其口出、寔能容之。以能保我子孫黎民。尚亦有利哉。人之有技、媢疾以悪之、人之彦聖、而違之俾不通。寔不能容。以不能保我子孫黎民。尚亦有利哉。人之有技、媢疾以悪之、人之彦聖、而違之俾不通。寔不能容。以不能保我子孫黎民。亦曰殆哉。唯仁人放流之、逬諸四夷、不與同中國。此謂唯仁人為能愛人能悪人。

秦誓しんせいに曰く、もし一个いっかの臣あり、断断兮だんだんけいとして他技たぎなく、そのこころ休休焉きゅうきゅうえんとして、それるることあるがごとし。人のある、おのれこれあるがごとく、人の彦聖げんせいなる、そのこころこれをみす。ただにその口より出づるがごとくなるのみならず、まことくこれをる。もってくわが子孫黎民れいみんを保つ。こいねがわくはまた利あらんかな。人のある、媢疾ぼうしつしてもってこれをにくみ、人の彦聖げんせいなる、これにたがいてつうぜざらむ。まことるるあたわず。もってわが子孫黎民を保つ能わず。亦曰くあやうい哉。ただ仁人じんじんこれを放流し、これを四しりぞけ、ともに中国を同じくせず。 これをただ仁人能く人を愛し能く人を悪むことを為すと謂う。

雲海:家臣が対比をしているのですが、いいほうが誠実でまじめで心が広い。優秀な人を見て自分も見習おうという人。一方、他の人を見てもそれを妬んで妨げようとする人とはどちらがいいか、もちろん前者ですが、そういう人を家臣にできる人は君子であり、よく人を見る事ができているということです。

遠雷:そういう技術を持っている人を見たら自分が持っているかのように喜んで、用いて取り入れる。そうすると、子孫が安んじられて繁栄していく。一方、他人が技術を持っていることをねたみ憎んでその人を用いることができない人の場合、子孫を安んずることなく発展していくことが無い。「ただ仁人のみよく人を愛しよく人を悪むことをなす」。そういう内容でよろしいですかね。

謙二:君子は周すれど、比せず。君子の有り様もあると思います。

遠雷:現代にも通じます。技術のある人を受け入れていかないと会社も伸びてきませんし。技術ある人を妬む人は中国から追い出してしまったりしていますが。

蒼生:吉川さんが誰かの解釈だったか、放逐した先の人民が害を受けるので、更に遠くの人のいない所に置くと、、、

遠雷:被害が少ないようにしたのですね。

蒼生:人がいない所に送る。それだけそういう人間は良くない、大きな害を与えるものだと。

遠雷:そういう人は国の中に置いておいてはいけない。
黎民というのが出てきましたが、一般民百姓のこと。黎というのは黒という意味で、民の頭が黒いから、黎民という。

蒼生:真理に暗いという意味では?

謙二:黎民は黒髪の人とあるけど。

遠雷:黒じゃなかったら黎民じゃないのか。

秋実:本当に意味がわかっているかどうかということもあるかも。

小雪:中国という言葉が出てきたのは初めてですよね。孔子様の時代からかなり経った感がある。

遠雷:でも四夷というのは、野蛮なところという意味で出てきますよね。

秋実:そういうところでもちゃんとやっていればわかるとありましたよね。

遠雷:次に進んでいいですか。

見賢而不能舉、舉而不能先、命也。見不善而不能退、退而不能遠、過也。好人之所惡、惡人之所好、是謂拂人之性。菑必逮夫身。是故君子有大道。必忠信以得之、驕泰以失之。

けんを見てぐること能わず、挙げて先んずること能わざるは、おこたるなり。不善ふぜんを見て退しりぞくること能わず、退けて遠ざくること能わざるは、あやまちなり。人のにくむ所を好み、人の好む所を悪む、これを人の性にもとると謂う。わざわい必ずその身におよぶ。この故に君子大道あり。必ず忠信もってこれを驕泰きょうたいもってこれを失う。

蒼生:賢人を見て挙げることができず、挙げても速やかに用いることができないのは、怠慢であり、不善を見て退けることができず、退けても遠ざけることができないのは、過ちである。
人の憎むこと(悪)を好み、人の好むこと(仁義善道)を憎むことは人の性にもとると言い、災いが必ずその身に及ぶ。つまり、位にある君子は、行いの由るところの孝悌仁義の大道があり、必ず忠と信によって人や国を得、また驕り高ぶりによって人や国を失うものである、とあります。

遠雷:さっきの続きみたいですね。ここで「命」という漢字が「怠る」という意味とされている。

蒼生:誤字という説が。

遠雷:ここ何かありますか?

蒼生:このまま、その通りだと思います。

遠雷:ここの後面白い話があるんですが、15時なので今日はここまでと致します。
『大学』をあっという間に読み終えたので、旧本の『大学』を読んでみてはという意見がありますが如何でしょうか。
金谷さんの本で読むと違いがわかると思います。礼記の中の大学、程子と朱子がこういう形にしていますが、元の大学に戻りましょうと。日本では朱子の大学がよく読まれていたと思いますので、朱子の解釈を読むのも意味があると思いますが、元々の大学がどうだったのか読むのもいいと思います。宜しいでしょうか。

以上