東洋哲学研究会

2017.04.23

『大学』大学章句伝六章~伝八章

論語勉強会議事録

2017年4月23日(日)

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句 伝六章~伝八章を学びました。

テキスト『大学』 宇野哲人全訳注


概要

もともと『礼記』の中にあった「大学」は、伝六章「誠意」から各論が始まっていました。今回は、その伝六章から読み始めました。

伝六章 本来人には善をなし悪を去る本性が具わっているため、意を誠にし、自らを欺くことがなければ、善をなし悪を去ると語られています。それはまるで悪臭をにくむがごとく、好色を好むがごとく、本能として具わっているものであり、君子はそのため独り慎み、己を律し、己の中に本然的に具わる善悪の基準を問うことが説かれています。

一方、小人は、人目がなければ、自分が悪いことをしても知られることがないだろうと考え、不善をなし、結果として自らを欺くこととなる。そのような小人であっても、自らを欺いていることに対してやましさを覚え、君子を見れば、不善を覆い隠し、善を顕わそうとする。だが、いくら不善を隠し、善を装っても、肺肝を見るが如く、その真実の姿(ごまかし)は看破される。

曾子様は、多くの人が見、多くの人が指さすところのものは、厳密にして、正しく批判する(十目の視る所、十手の指す所、それ厳なるか)といって、自らを律しておられました。ここで曾子様がいうところは、単に人目があるから正しい行ないをするということではなく、自らの基準に従って意を誠にして行いを律しても、なお自らは気づかない点があるため、人の指摘に謙虚に耳を傾けて、自らを省みて、己を律しようとされたのではないかと思われます。

そうして道徳を重ねていくことで、その人の身に潤いが生じ、心は広々として、動きも ゆた かに暢び暢びとしてくるといいます。

己の中に善悪の基準が本然的に具わっていることがわかっていても、現実の自分は善悪の判断を誤ってしまうのではないかという意見がありました。自らの奥底に具わっているものを信じ、意を誠にして自らを欺くことなく、「十目の視る所、十手の指す所、それ厳なるか」という曾子様に従って、人の指摘に謙虚に耳を傾け、終始自らを省みることは、「大学」が私たちに教える指針として受けとめ、実践していくことが肝要です。

伝七章 ここでは「身を修めるとは、心を正すことにあり」と説かれます。怒り、恐れ、好み楽しみ、憂うことがあれば、心を正しくすることができない。過度の感情に左右されていては、心は乱れ、正しく保つことができず、身を修めることができなくなります。自らの感情に陥った時、大きく判断を過ち、道を踏み外し、自分の身を危うくしてしまうということだと思います。

伝八章 ここでは「その家を ととの うるはその身を修むるにあり」と説かれます。家庭の中が調和がとれて整うために、その中の人が身を修めていなければいけないということです。親愛の情であれ、賤しみにくむ心であれ、畏敬、哀矜、敖惰いずれの心であれ、一方に偏ってしまうと正しい判断はできない、正しい判断ができないと、家庭の中は不和となり、調和をもって整えることができないということでないでしょうか。

ここまでは自らを修めることが説かれていました。この後の章では、治人について説かれます。

大学 伝六章

所謂誠其意者、毋自欺也。如惡惡臭、如好好色。此之謂自謙。故君子必愼其獨也。

所謂 いわゆる その まこと にすとは、 みずか あざむ きなり。 悪臭 あくしゆう にく むがごとく、 好色 こうしょく この むがごとし。これをこれ みずか こころよ くすと う。 ゆえ 君子 くんし かなら ずその ひと りを つつし むなり。

梅花:意を誠にするとは、本心を欺いてはならない。悪臭を悪むがごとくにこれを憎めば、悪をなすことはない。善を好むことは好色を好むがごとくにこれを好めば善をなす。故に君子は独りを慎む。

遠雷:本来の『大学』では、この誠意から始まっているということです。意を誠にするとはどういうことかというと自ら欺く事なきなり。君子はその独りを慎むなり。「慎独」という大事な概念が出てきました。「好色を好むが如し」は、『論語』でも出てきて、孔子様のような聖人が「好色」とは云わないのではないかという解釈があるのを確認しましたが、『大学』を読んで、わざわざ別の意味に捉えずとも、そのまま素直に読んでよかったのではと思いますが、どうでしょうか?

帆士:最初から女でいいと思いますよ。

備後:そうでいいと思います。

小人閒居爲不善。無所不至。見君子而后厭然、揜其不善而著其善。人之視己、如見其肺肝然。則何益矣。此謂誠於中形於外。故君子必愼其獨也。

小人 しょうじん 間居 かんきょ して 不善 ふぜん す。 いた らざる ところ なし。 君子 くんし のち 厭然 えんぜん として、その 不善 ふぜん おお いてその ぜん あらわ す。 ひと おのれ ること、その 肺肝 はいかん るがごとく しか り。 すなわ なん えき かあらん。これを うち まこと あれば ほか あらわ るという。 ゆえ 君子 くんし かなら ずその ひと りを つつし むなり。

凪沙:小人は時間があると良からぬことを考えて、やることに歯止めがかからない。君子を見ると、良からぬことを隠して、善であるかのように見せかける。しかし、人々の眼は肺や肝臓まで見通すほど厳しいから、隠せるものではない。心にあることは外に現れる。君子は独りでいるときに身を慎むものだ、という意味です。昨日、「誠」という意味の解釈の違いを予習ノートに帆士さんが書いてくれましたが、荻生徂徠さんは、ここで言う「誠」には、良いものだけでなく、悪いものも含めた心のすべてが出てくると解釈しています。誠を善悪すべてとすると、次の章の「君子は必ずその意を誠にす」の「誠」と合わないと思います。

帆士:徂徠さんは考えすぎだと思う。

凪沙:この文章の流れだと、「善も悪も含めた心」と読めてしまう。

遠雷:内にあるものは隠せないよということでは?陽明さんも元々善も悪もないという考え方。

帆士:徂徠さんは朱子が嫌いだから、そう言っているのか?一理あるが。

蒼生:良くも悪くも人間の真情がそのままに表されている『詩経』の「思邪無し」を連想して、素のままの全てを含むということで腑に落ちました。「自分の真情をいつわらない」ことなのかと。(「此処は、善念悪念を論ぜず少しも虚暇(偽り)がない」『伝習録』王陽明とあるように)

帆士:そもそも儒教でいう悪はなにか?

帆士:『論語』も悪というのではなく、にくむとして出てくる。

遠雷:これは素直に読んだほうがいいような気が。

凪沙:ここを善悪と読むと次の章の「誠」とつじつまがあわないので、所謂誠と解釈してで良いのでは?

謙二:ここに故に君子はとあるので、素直に誠ではないでしょうか。悪までは入れない。

遠雷:ここで悪も入る誠となると、訳がわからなくなる。中にあるものが形に現れるというのがあり、誠のある人はそれがそのまま出てくるからということでは。悪いものまで入れなくてもいい。

謙二:展開としては、格物致知があって、それから誠意もなければいけないということです。悪まで入れるのは、拡大解釈しすぎでは。

蒼生:そのように解釈する方が理解はしやすいですね。

遠雷:前回、格物致知について議論し、最初にあるものだから、学問するということではないかという話になりました。学問することと徳を修めることが両輪となって自分を修めることになるのではないかという話になりました。そして、今回誠意について語られている。若干、余談になりますが、閑居というのがあって、『論語』では確か、暇していると悪いことするよと理解していたかと思いますが、ここでは独りでいると小人は悪いことするよということになります、それに対して、君子は誰の目もなくてもきちんとしているのだという内容。

謙二:全てが出てくるということなんでしょうね。

遠雷:だからこそ独りで慎むんでしょうね。帆士さんが金仁山さんの解説を書いてくれていましたが、この方は朱子学を修め、義理を究めて、一代の名儒となった人。

帆士:ここでは自分を欺くのが結構無意識だから、自分に響いたところです。自分の本性を欺いてはいけないということだと思う。自分自身が本性を欺いているかもわからなかったりする。悪臭をにくむ、色を好むがごとく思わないと、それこそできないのかなと思った。

謙二:曾子兄が為されたように日々三省することが大事です。帆士さんのいうように自分を自分で欺き始める。

遠雷:無意識のうちに自分を欺いてやってしまう。そのことに対してに意識的にあらねばということですね。

春香:私も「自分を欺く」という言葉が引っかかりました。自分を欺いているなんて全然思ってなくても欺いているかもしれない。(欺いていないか)自分を省みることが大事だと思います。

曾子曰、十目所視、十手所指、其嚴乎。富潤屋、德潤身。心廣體胖。故君子必誠其意。右傳之六章。釋誠意。

曾子曰 そうしいわ く、 十目 じゅうもく ところ 十手 じっしゅ ゆびさ ところ 、それ げん なるか。 とみ おく うるお し、 とく うるお す。 心広 こころひろ 体胖 たいゆた かなりと。 ゆえ 君子 くんし かなら ずその まこと にす。

右伝 みぎでん の六 しょう 誠意 せいい しゃく す。

備後:これで伝六章は締めとなります。閑居独座の時であっても、何事も覆い隠せない。独りを慎む工夫を積んで、それが本当にできたら効果が著しいとあります。君子たるもの独りであっても心が美しいと締めくくっています。先ほどからの議論でも出ていましたが、我々凡夫が善悪を考えるときに、本当の善と悪がわからないという点と、自分の真の心を隠して振舞っているという点がありました。此の伝六章の吉川さんの解説に、王陽明がこの部分を好んで使っていたというのがありました。「悪臭を悪むがごとく悪を悪み、好色を好むがごとく善を好む」なら、それだけで聖人である、と言っていたとのこと。確かにこのようであれば、正に知行合一が体現できているからであり、この解説はとても面白かった。

帆士:面白かったよね。

備後:さらに吉川さん解説で。王陽明さんは何でも一つにし、朱子は何でも分けるとあったのもとても印象的だった。

帆士:小人は隠せると思っているのでは。そこに注力したりする。君子との違い。だから独り慎むことにつながるのでは。

十舟:さっき帆士さんが言っていたように、覆い隠そうというそういう意識すらないというか。悪人は、悪事を悪いこととして認識してやっていないところもあるのでは。

遠雷:悪がわからないところに問題がある。無知。

謙二:分かっていないところが怖い。直すこともできない。

蒼生:天を畏れるという観点が無いのだと思う。

小鳥:天を畏れるというのが実感としてわからない。

蒼生:天を畏れるの本当の意味を分かっているのが君子や聖人で、わからないから小人なのだと思う。(自分も含めて。小人でもわかろうとする努力をすることが大事なのだと)

遠雷:十人の目、十本の手に刺されて、何が善かがだんだん醸成されていくのでは?

謙二:曾子兄はやっぱり凄い。戦々兢々として深淵を臨むがごとく、薄氷を踏むがごとくと、一生をかけて、自分は正しいかとずっと確認していた。

遠雷:自分で自分を欺いていることもわからないから、常に常に振り返られるのかなと思う。

大学 伝七章

所謂脩身在正其心者、身有所忿懥、則不得其正。有所恐懼、則不得其正。有所好樂、則不得其正。有所憂患、則不得其正。心不在焉、視而不見、聽而不聞、食而不知其味。 此謂脩身在正其心。右傳之七章、釋正心脩身。

所謂 いわゆる おさ むるはその こころ ただ すに りとは、 こころ 忿懥 ふんち する ところ あれば、 すなわ ちその せい ず。 恐懼 きょうく する ところ あれば、 すなわ ちその せい ず。 好楽 こうぎょう する ところ あれば、 すなわ ちその せい ず。憂患 ゆうかん する ところ あれば、 すなわ ちその せい ず。 こころ ここ らざれば、 れども、 えず、 けども、 こえず、 くら えどもその あじ わいを らず。これを おさ むるは、その こころ ただ すに りと う。

右伝 みぎでん の七 しょう こころ ただ しくし おさ むるを しゃく す。

桃太:ここは身を修むるはその心を正すにありということを解説しています。怒りや恐れ、好楽、憂患等の七情が過ぎてしまえば心の働きの正当を失う。また、何事か考えに囚われて心ここにあらずだと、何を聞いたり見たり食べたりしても五感が正しく働かない。それ故、心を正しくしてもって身を修めなければならない。という内容です。吉川さんは心を監察の対象とし「敬によって直くする」(正す)事で身を修められると解説しています。敬を意識することで七情をコントロールし、最も根本の身を修めるという事ができるのだと思いました。

凪沙:(由来について)居敬窮理の「居敬」ですね。

帆士:感情があってもそこに愛があれば、正しいわけだし。今はそれを指針とする。

遠雷:七情もいき過ぎると物事が正しく判断できなくなる。

風鈴:愛があることで行き過ぎない、という考え方ですよね。遠雷さんが言ってましたが。

杜若:私もそう思いました。

帆士:中庸ということを言っているんですかね。

山吹:身を修めるの意味がわからないんですけど。

遠雷:多分第八章で説明されていると思う。

大学 伝八章

所謂齊其家在脩其身者、人之其所親愛而辟焉。之其所賤惡而辟焉。之其所畏敬而辟焉。之其所哀矜而辟焉。之其所敖惰而辟焉。故好而知其惡、惡而知其美者、天下鮮矣。故諺有之曰、人莫知其子之惡、莫知其苗之碩。 此謂身不脩不可以齊其家。右傳之八章。釋脩身齊家。

所謂 いわゆる その いえ ととの うるはその おさ むるに りとは、 ひと その 親愛 しんあい する ところ いて へき す。その 賤悪 せんお する ところ いて へき す。その 畏敬 いけい する ところ いて へき す。その 哀矜 あいぎょう する ところ いて へき す。その 敖惰 ごうだ する ところ いて へき す。 ゆえ この みてその あく り、 にく みてその もの 天下 てんか すく なし。 ゆえ ことわざ にこれ り、 いわ く、 ひと その あく るなく、その なえ おお いなるを しと。これを 身修 みおさ まらざればもってその いえ ととの からずと う。

右伝 みぎでん の八 しょう おさ いえ ととの うることを しゃく す。

柚子:身を脩むる事が、家を斉うることの基礎となることの説明です。親愛をもってするとは子供に対して愛することが過ぎる、賤悪する所とは、いやしみにくみすぎる、畏敬する所とは、尊敬しすぎて正しい判断ができない、人間はそういものです。愛憎の外にたって正しく判断できる人は少ない。身を修まった人とは家を斉えることができる。家というのが正しい愛情を持って接するのが難しいというのが実感です。正しい判断が難しいと思いました。

遠雷:これは偏ってはいけないということですよね。いき過ぎたものがいけない。そうでないと身を修められない。公平であることと誰か解説に書いていた。公平というよりバランスを崩してしまい、中庸から外れてしまうことだと思う。

山吹:言っている内容がわからない。

遠雷:山吹さんはまだピンとこない。

山吹:それぞれの章では意味がわかるけど、じゃ、身を修めるって何なの?って、わからない。

帆士:わからないですよね。やろうと思ったらどうしたらいいか。慎むという意味だと思うんですけど、慎むの元々の意味は禊ぎなんですよ。だからさっき敬意があって、言われていることを実践する中で培われていくものということでしょうかね。

杜若:まずここに書かれているひとつひとつの具体的な例を読んで、そこから感じるものが身を修めるということでいいと思いますが。

帆士:間接的ではっきりいっていない。詩経でその在り方を語っていたりするし。

遠雷:共通して言っているのは、過ぎたるも及ばざるもだめで、中庸であらねばならない。いき過ぎてはいけない。

帆士:いき過ぎてはいけないと言われても。

遠雷:足りないも過ぎたるも駄目で、愛も溺愛だとだめだと。

帆士:動機を知れということ?溺愛も自分の思い通りにしたいというのがある。

杜若:動機を追っていくというのはここの趣旨とは違うのかもしれない。

帆士:行き過ぎるというのがわかるにはどうしたらいいか?

十舟:「 心焉 こころここ に在らざれば、 れども、見えず、聴けども、聞こえず、、、」だから、(心を正しく、情に流されないようにしないと)視えるものも見えないんですよね。

小鳥:私もそう思います。好きでも悪いところが見えて、嫌いでも良いところが見える。

十舟:客観的に見るというのが感情から離れているということだから。

風鈴:論語にも「惟仁者のみ能く人を好し、能く人を悪む。」とありますが、仁の心が、正しい愛が行いに顕れるのかと。

遠雷:自分の情に流されると見えないし、常に振り返らなければならないということ。

議論

小鳥:さっきの山吹さんの疑問はどうなのか?私はわかる気がする(同じく疑問に思う意)。さっきの愛も、男性と女性ではその愛(の修行法)は違う。それを超える愛(行き過ぎない愛)は、どう愛することなのか?

遠雷:痘痕も靨(あばたもえくぼ)ではなく、客観的に子供の欠点がわかるとか。

小鳥:でもその、痘痕も靨がその子を救っていることもあるし。現実的にどうかというのが大事な気がする。

帆士:そこもそれぞれの人の境涯によって違う。そこを日々見極めるのが大事では?

遠雷:子供が立派に成長するのが愛では?(そのためには厳しくしなければならない時もある)

帆士:母親にとっては子供は自分の一部。だから、自己愛に近いものがある。父親とは違う愛。それを正しいという視点ではなく、もう既に子供に愛情を与えてしまう。

春香 :子供の頃は、自分に優しい人が自分を愛している人だと思ってしまうが、大人になって、(優しくなくても)「あ、あの時の厳しい言葉」は愛情だったんだと思ったりする。

帆士:そういうのはあります。

蒼生:すみません。話によく絡んでいけないのですが、男性はどう考えるのか、男性陣の意見を聞きたいです。

謙二:すみません、結局今、何を目的に話をしているのか。修身の話だとすると、子供が間違っているとき、殴ってでも改心させるのが愛なのか。それを行えば斉家するのか。小鳥さんが何を問おうとしているのかわからない。気持ちは伝わりますが。

小鳥:(修身に子供を愛することもいき過ぎないとあるが、愛の実践は性差によっても異なり一概に言えない、もっと理屈ではないのが愛なのでは?ということを伝えたかった。)

謙二:深い愛は大事ですよね、抑える必要なく、またそれがなければ、家を斉えることができない。

備後:そう思います。小鳥さんは深い愛について、帆士さんも求道心的なことでそのようなことをさっき言われた気がしたんですが、それらについて「過ぎたる」恐れを気にしてる気がします。確かに過ぎたるは及ばざるより悪し、ですが、愛や求道心については、それを無理に否定しなくていい気がして。

謙二:確かに、この大学のプロセスだけを重視しなくても良いのでしょうから。

備後:ただ確かに、行き過ぎると偏ってしまうというのはついて回るので、いわゆる愛、についても薄氷を踏むがごとく、確認していくのが大事なのでは。

杜若:自分はこうするという姿勢ということですよね。男女の違いというのは生まれつきあって、本能的なもので、その範囲で生きるしかない。傾向もきまっているかも知れない。でもその上で自分はどうするのかということでは。

謙二:小鳥さんの強い思いは分かります。横にいて伝わります。

小鳥:(字面だけだと)頭で勉強していることなのかなと思い、朱子が居敬窮理で、居敬をし、学問をするということだったので、周りへの敬というか、礼というか、そういうことが学問をする上で大切かと思った。

謙二:さっきの山吹さんの修身が分からないという話、それを解決していないということですかね。

小鳥:さっきの山吹さんのわからないというのを通り過ぎて、(皆の勉強としても)先に進んでいいのかということ。

杜若:さっき私が思ったのは、どういう「わからない」なのかというのが少し掴めなかったです。厳密に捉えようとしすぎているのか、具体的にどう行動するのかわからないとか。皆のコメントを聞いて、少しまた考えてみようとされたのかなとも思ったし。

桔梗:自分の中でジャッジする問いかけがわからない。自分はバランスがとれているだろうか、どうだろうか?問いかけをする核は経験を積んでいくしかないのかなと。

春香:山吹さんの性格で、きちんとこれはこうですと言われないとわからないというのはありますか?

山吹:さっき杜若さんが言ってくれて、書いてあるのを捉えると聞いて、ちょっと違った感覚は浮かんだんですけど。最終的には国を斉えるというのがあり、それをもっとひとつずつ明確にしたくて、身を斉えるとはどういうことかと思った。

杜若:何というか、ニュアンスはとてもわかりました。

春香:わからないことをずっと考えていくことは大事ですよね。

山吹:それを読むと確かにわかる。

帆士:これをやっていくことで身を修めるということでは?

備後:親愛、賎悪、畏敬、哀矜、敖惰、これらによる偏りを一つ一つ抑えることによって、それが身を修めるということ。平たく読むとそう書いてあると考えるのが理解しやすいかと。

謙二:言葉にしてあることが大事で、掲げられているとそこを目指せる。分からないなりにも修身を目指さなければと思うことが大事ではないでしょうか。

備後:修身、身を修める、とだけ言われても、何だか具体的でなく、ぼやっとしている。でもこれを読むと、バランスをとることが修身なんだなとか、そういう理解をした。

遠雷:そういう意味ではとっかかりとなることを具体的に書いてある。

杜若:これができたから修身ができた!というものというよりも、常にやっていくことだと思う。できたかはわからないけど、やり続けること。

遠雷:軌道修正しながら、やり続ける。常に反省がある。

遠雷:同じ怒られても、根底に愛情があるかどうかわかるし、そこが大きく違う。

春香:子どもの方がよく感じると思う。小学校の頃にすごく怖い先生がいたけど、その先生のことは大好きだった。愛情があることを感じていたんだと思う。

遠雷:心で感じるのが大事。

小鳥:心も頭、理と情の両方大事なのかなと思った。

山吹:自分の癖が出たようで面白かったです。

春香:たとえ、記録には残ってなくても、代々言い継がれてきたことは事実かもしれないですよね。

遠雷:次回は第九章から読みます。

帆士:大学では何が書かれていたのかをまとめてもいいし、各人がまとめたものを発表してもいい。

以上