東洋哲学研究会

2017.04.16

『大学』大学章句 伝三章~伝五章

論語勉強会議事録

2017年4月16日(日)

開催場所:春秋館

議事内容:本日は『大学』大学章句 伝三章~伝五章を学びました。

テキスト「大学」宇野哲人全訳注


概要

朱子は、『礼記』の中にあった「大学」を章に分かち、順番を並び替え、格物致知(伝五章)について大幅に加筆しています。『礼記』では、もともと意を誠にすること(誠意)が最初に語られていました

「誠意」からはいっていく方がすんなり読めるという意見もありましたが、朱子の説いた儒学「朱子学」が後世に与えた影響を考え、まずは「大学章句」に従って読み進めることにしました。

「大学章句」を読むと、朱子が重視した「格物致知」とは一体何かという問題に直面します。そこで後半は、「格物致知」について議論しました。

「大学」では、「格物致知」について詳しく語られておらず、朱子が補遺を付けています。朱子が説く自己修養とは、居敬(自分の中にある理に基づいて、欲を抑えて言動をつつしむ)と格物窮理(外の物の一つ一つの理を極める)であることを確認しました。

しかしながら、「格物致知」をどのように実践すればいいのか、具体的なイメージを掴むまでには至りませんでした。「格物」とは、「六芸を窮め尽くす」(宇野氏)という解釈もありました。

「大学」の中で、「書経」や「詩経」が多く引用されています。その引用を通して、具体的なイメージが伝えられているのかもしれません。

伝三章では、鳥でさえその止まるべきところを知っているのであるから、人として至善に止まることができなければ、鳥にも及ばないという孔子様の言葉と、周の文王は、常に間断なく自らの明徳を明らかに、止まるべきところに安んじていたことが語られています。すなわち、人の君となっては仁に止まり、人の臣となっては敬に止まり、人の子となっては孝に止まり、人の父となっては慈に止まり、国の民と交わっては信に止まる、と。

さらに「切磋琢磨」の由来となった『詩経』衛風淇澳篇の詩について語られています。学問と徳行を修め、慎み深い君子(衛の武公)の姿を詠んでいます。骨を切り出し象牙を磨くが如く、学問を修め知を磨き、玉をみがき石を磨くが如く、自らの徳性を修め、身を慎んで威儀を備え、その徳容は人々が忘れることができないほどだと讃えています。

「格物致知」とは、明徳を明らかにした先王聖人の言行を通して自然の理を学び、絶え間ない努力によって知を磨き、実践によって自らの中に具わる徳性を明らかにし、我がものとしていくものと語られているように感じられました。

議論

遠雷: 伝三章~伝五章を読みます。帆士さんが予習ノートに、古儀と朱子の比較を載せてくれています。

帆士: (予習ノートに書いた内容を説明)

上表にあるとおり、比較表を纏めました。程子が先に改訂したものを更に朱子が改訂を加え宋独自の哲学を打ち立てた。

原本は誠意が先に語られ、朱子は、朱子章句と伝五章(格物致知)が付け加えられている。

遠雷: 凄くわかりやすくなりましたね。ここにあるように、『大学』はもともと誠意から読んでいた。それが朱子は伝六章から始まっている。とりあえずは、朱子の読み方でいき、おかしいところを確認していけばよいのではないでしょうか。今日は格物致知をやりますが、『大学』にはそもそも解説がないので、答えがないのかもしれない。

帆士: 格物致知は、本にもいろいろ書いてあって、もっと自分の為にもまとめたほうがよいと思ったが、まとめきれなかった。出来るだけ、程子や朱子等の言葉を載せました。

遠雷: 程子は「格は歪である」と語っていますが、どういう意味なのでしょうか。

帆士: 分からないですよね。これが。こういうのもいろんな説があるのだが、とりあえずこのまま載せた方がよいのではと思った。

遠雷: このあと朱子が受け継いでいる?

帆士: 程子は誠意も大事だと言っているが、朱子のように格物致知をここまで重要視していなかったらしい。程子は北宋の人、朱子は南宋の人、そこでいろんな違う思想が出てきた。金の支配があり、後に宋の時代を北宋、南宋としている。異民族の支配で、自分たちのアイデンティティを確立するためにも必要だった。そういう背景もある。漢とか随の時代でも『大学』の位置づけについて論じているものもあるが、儒学の危機というべきか、この時にある種の中華の危機があった。

遠雷: 仏教や道教もこの頃盛んだったのでは。

帆士: 時系列に格物論をまとめました。朱子の後は、陸九淵も朱子を重視し格物を論じている。明の時代に王陽明が出てくる。この時代に儒教が国教となった。四書を科挙の科目にしようとした。また、王陽明と朱子学の二派が対立し、大論争を行なった。

遠雷: 日本でも朱子学が徳川学府で採用され、そのあと陽明学が出てきて、伊藤仁斉さんとか荻生徂徠さんは、儒学の元に戻って読もうという姿勢。朱子は日本でもすごい影響を与えている人。

帆士: 朱子は腐敗した政治の批判するようなことをして、不遇のうちに70歳でなくなった。

蒼生: こういうことを言っていいのか、朱子の生涯をみると孔子様に似た所があるのではないかと。不遇にあって政治の場にはおられずに、現世的には大変な苦労をされて、その後に後学のためにと学問に専念される。そうした犠牲を払われて後世に残されたようなことがあるのかも知れない。

帆士: 独自の哲学を打ち立てたという功績はあるのではないか。朱子を知らないと『大学』を語れないということもあり、予習ノートに入れました。

(朱子の経歴を簡単に説明) 

朱子が「偶成」という詩を残している。

  少年易老学難成  少年老い易く学成り難し

  一寸光陰不可軽  一寸の光陰軽んずべからず

  未覚池塘春草夢  いまだ覚めず池塘春草の夢

  階前梧葉已秋風  階前の梧葉すでに秋風

  を残している。ここから来てるのかと思い紹介します。

(他省略)

  「理気二元論」や「性即理」の実践を唱えた人。理気二元論は、全てのものは理と気から出来ているという考え方に基づく。また、性とは、個別の人間に内在する本質であり、その内容は仁、義、礼、知、信の五常をいい、人間の心はこの性と情(感情、欲望)から成り立つが、情に動かされず、性に従って生きることを目指す。性即理は、宇宙の根本原理である理に即する
ことであるという考えをいう。

  端的に説明すると、朱子は徳治主義を発展させて、自己修養(修己)の考えを生み出した。

  そして朱子が自己修養を達成させるために考えたことは、以下の2つ。

  ・自分の中にある理に基づいて、欲を抑えて言動をつつしむ=居敬

  ・外の物の一つ一つの理を極める=格物窮理

   居敬と格物窮理を合わせて居敬窮理と言い、この居敬窮理によって、知(智)を極めるべきだとした。この考え方を格物致知と言う、ということらしい。

遠雷: 窮理だと読書する事も含まれていて、読書なの?というのもありますが、当時の読書は、いまのようないろんな本があったのではなく、聖王の教えなど、限られた高度の内容のものだったと思われます。居敬が瞑想的な感じで、窮理と居敬が両輪になっている。

帆士: 瞑想というより黙想に近いのではないかと思う。自分が正しいといって批判するところ。自分が不遇になっても貫き通す強さがある。だいぶ辛辣だったらしい。

遠雷: 王陽明はどうなんでしょうね。

蒼生: 絵を見ると頬がこけた顔をしていますね。

帆士: 吉川さんも朱子の本を出しているが、自分は心情的に陽明学に近いと書いている。そういう学者が比率的に高いのではないか。朱子(朱子語類等)を読んでいると堅くて苦しくなる。本当にやれるの?と思う。己に厳しく、他人にも厳しかった。

帆士: 以前、淳寛さんと元亨利貞における五常の話になったことがあり、その際に、朱子の考えに基づいた考察があった。機会があったら皆に紹介できたらと思う。

蒼生: 朱子は「理気」という宇宙論を展開したのが画期的と思いました。

遠雷: 途中から参加された人にお伝えしたいですが、『論語』を読むにしても、『大学』を読むにしても、五常が大事です。

遠雷: 予習ノートに、格物について、赤塚さんのをまとめています。朱子以前の考え方もあります。結局、宇野さんの考え方は格物は六芸に通暁することである、と。え、そういうことなの?という感じですが、物についても格についてもいろんな考え方があるということです。

大学 伝三章

詩云、邦畿千里、惟民所止。詩云、緡蠻黄鳥、止于丘隅。子曰、於止、知其所止。可以人而不如鳥乎。

いわ く、 邦畿千里 ほうきせんり たみ とど まる ところ と。詩に云く、 緡蠻 めんばん たる 黄鳥 こうちょう 丘隅 きゅうぐう とど まると。 いわ く、 とど まるにおいて、その とど まる所を る。 ひと をもってして とり かざる けんやと。

秋実: 鳥でさえも止まれるんだから、人は止まれるだろうと理解した。でもそれだからそうなのか、と理解するところまでいかなかった。

遠雷: 人が止まるところは至善だということなんだと思うんですけど。王都が四方の極みであるように、至善が万理の極みだということ。

秋実: 善が自然に集まるところに人が集まるんだよという比喩ですか?

遠雷: 万理の極みが至善で、そこに集まるということ。鶯が山の峰の茂っているところに集まって鳴いている。鳥でさえ、自分の止まるところを知っているのだから人はわかるだろうと。

帆士: とてもいい詩だと思うんですけど、意味がわからないとそれを味わえない。

秋実: いいよねぇと感じるところまでいかない。

詩云、穆穆文王、於緝煕敬止。爲人君、止於仁。爲人臣、止於敬。爲人子、止於孝。爲人父、止於慈。與國人交、止於信。

いわ く、 穆穆 ぼくぼく たる 文王 ぶんのう ああ 緝煕 しゅうき にして けい して とど まると。 ひと きみ っては じん とど まる。 ひと しん っては けい とど まる。 ひと の子と っては こう とど まる。  ひと ちち っては とど まる。国人 こくじん まじわ っては しん とど まる。

帆士: 穆穆たるとは「深淵の貌」と宇野さんはいっている。徳の高いというか明徳のある文王のことを語っており、イメージですが、なんと言うか、文王の風貌に感服。その通りですね、はは~という感じ。仁、敬、孝、慈、信を落とし込んだ感じです。

遠雷: 『論語』的には、「敬」のところは、「忠」なのではないかと思った。

帆士: 文王のところだから、敬なのかと思った。

遠雷: 文王はこのようなことを実践されていた。

帆士: 穆穆たるとはどういう意味か?

遠雷: 諸橋さんによると、「奥床しい」という意味らしい。敬につながる感じがする。

秋実: 詩でないと表現できないんでしょうね。

詩云、瞻彼淇澳、菉竹猗猗。有斐君子、如切如磋、如琢如磨。瑟兮僩兮、赫兮喧兮。有斐君子、終不可諠兮。
如切如磋者、道學也。如琢如磨者、自脩也。瑟兮僩兮者、恂慄也。赫兮喧兮者、威儀也。有斐君子、終不可諠兮者、道盛徳至善、民之不能忘也。

いわ く、 淇澳 きいく れば、 菉竹 りょくちく 猗猗 いい たり。 たる君子 くんし り、 せつ するがごとく するがごとく、 たく するがごとく するがごとし。 ひつ たり かん たり、 かく たり けん たり。 たる君子 くんし あり、 つい わす からずと。

せつ するがごとく するがごとしとは、 がく うなり。 たく するがごとく するがごとしとは みずかく おさ むるなり。 ひつ たり かん たりとは、 恂慄 じゅんりつ なり。 かく たり けん たりとは威儀 いぎ なり。 たる君子 くんし あり、 つい わす からずとは、 盛徳 せいとく 至善 しいぜん たみく わす るる あた わざるを うなり。

梅花: 衛の武公を賛美したうた。美しき緑竹のごとく、斐然として文ある君子は終に忘れることができないと歌ってある。その徳面に表れ、威あって孟からず、儀表堂々たる。武公のごとき盛徳至善の君は民はこれを愛慕して忘れることができない。盛徳にして至善に止まるものの効果をいう。

遠雷: 切磋琢磨をして学問を弥やが上にも磨いて功を積み、瑟僴赫喧は、身を慎しみ、威儀を整った様子。盛徳と至善を備えた君子については、民は後に至るまでその徳容を忘れることができないということが語られている。切磋琢磨は『論語』の学而第一15章にもでてきた。元々は詩経にでていた。

帆士: 必ず慎しむということがでてくる、それがわからない。

遠雷: 天に対して、人に対して、そして自分対しても慎む。

帆士: 身近なことでいうと陛下を思えばいいのでしょうかね。

詩云、於戲前王不忘。君子賢其賢、而親其親、小人樂其樂、而利其利。此以沒世不忘也。右傳之三章。釋止於至善。

いわ く、 於戯 ああ 前王 ぜんおう わす れずと。 君子 くんし はその けん けん としてその しん しん とし、 小人 しょうじん はその たの しみを たの しみてその とす。ここをもって ぼつ してわすれざるなり。 右伝 みぎでん 三章 さんしょう 至善 しいぜん とど まるを しゃく す。

蒼生: 詩経の詩を引いて、至善に止まる境地を得た君子人がいつまでも人人に慕われているということを述べたものです。前王は周の文王武王のことで、君子も小人も皆忘れられずにいると。これまでの三章は皆三綱領の「至善に止まる」の説明をしています。

遠雷: それまでと同様、至善に止まることについて解釈している。至善に止まるという境地を得た人はいつまでも後世の人から慕われるということですよね。

帆士: 至善が中庸という意味に感じるんですけど、どうでしょうかね。

遠雷: 中庸ということでしょうね。その場に応じて、仁となり、敬となり、孝となり、慈となり、信となると説明されていますので、より具体的にイメージがつきますかね。この明明徳といっているのは自分の中に備わっている四徳を明らかにすることで、中庸につながるのではないかと思う。

大学 伝四章

子曰、聽訟吾猶人也。必也使無訟乎。無情者、不得盡其辭、大畏民志。此謂知本。右傳之四章。釋本末。

子曰 しいわ く、 うつた えを くは、 吾猶人 われなおひと のごときなり。 かなら ずや うつた えなからしめんかと。
まこと なき もの はその くすことを ず。 おお いに 民志 みんし おそ れしむ。これを もと ると う。
右伝 みぎでん 四章 ししょう 本末 ほんまつ しゃく す。

空蝉: 諸橋さんの通釈から:この章は物事の本を正して行けば、自ら末は治まるものであると云うことを説明したもの。孔子曰く、訴訟事の裁きをする遣り方に就いては、自分も尋常の人間と何等違う所はない。唯自分の期する所は、訴訟を巧く裁判すると云う事に非ずして、寧ろ訴訟そのものを無からしめようということを考えている。訴訟無からしむ迄に行くという事になるためには、訟を聴く人が自分の明徳を明らかにして、訴訟すべき人に対する場合に、先方の心を十分に看抜いてやる。
我が心既に明鏡を持して居れば其の為に実際の実のない人間をして偽りの辞を尽くすことの出来ない様にならしむ。斯くの如くすれば、自然に人民の志をして畏れしむる事になって、竟には偽りの訴訟をする事が世上に無くなる訳である。斯う云うような裁判の遣り方、是は無論一例であるが、即ちこれが本を知ると云う事になる。我の明徳を明らかにする事によって、遂には人の明徳を明らかならしむのである。

遠雷: 『論語』の顔淵の12-13に、孔子様の同じお言葉がありました。 まこと のないものはその辞をつくすを得ずというのはどういう意味なんでしょう。

帆士: この まこと が真の意味で誠に通ずればよいということに思える。だからそういうふうに読むのかと。誠から出たものであればつくすことを得るということかと。

遠雷: 情を「まこと」と読むのですね。孔子様は自分が明徳を明らかにして、民の心を威服せしむ。 まこと なきものも、虚偽の発言をできなくする。

空蝉: 明徳を及ぼしていく。

遠雷: 文脈を補わないと理解できないところ。明徳を明らかにするが本で、訴訟自体をなくすのが末。

秋実: 訴訟自体をなくすことは自分の明徳を明らかにするということかと。

帆士: 理想は理想だよね。現代は、逆のことで使われてしまっているから。

遠雷: 身内の証言は信用できないというのは情から出ているからであって、近代法に情が反映されていることだと思う。

秋実: 訴訟に持ち込む気持ちにそもそもならない。慮ったり、お互いにわかりあえるということかと。

帆士: そういう世の中だととても良いのだけれど。

遠雷: 堯舜まではそういう時代だったと。徳治政治が実現していた。

帆士: そこまででなくとも我が国はそうだということだから。

遠雷: 日本で実現しているのだから不可能ではない。上の人に徳があると治まっている。

秋実: 上の人が徳を持っていても明らかにさせない下の人があって。違うところに持って行かれるものがあるのかと。

遠雷: 戦後、『大学』『論語』を読まなくなって、五常についても学ぶことがなくなった。

秋実: 感覚として分からせて頂けているのが有難い。

大学 伝五章

此謂知本。此謂知之至也。

右傳之五章。蓋釋格物致知之義。而今亡矣。閒嘗竊取程子之意、以補之曰、所謂致知在格物者、言欲致吾之知、在卽物而窮其理也。蓋人心之靈、莫不有知。而天下之物、莫不有理。惟於理有未窮。故其知有不盡也。是以大學始教、必使學者、卽凡天下之物、莫不因其已知之理、而益窮之、以求至乎其極。至於用力之久、而一旦豁然貫通焉、則衆物之表裏精粗、無不到、而吾心之全體大用、無不明矣。此謂物格。此謂知之至也。

これを もと ると う。これを いた りと う。

右伝 みぎでん 五章 ごしょう けだ 格物 かくぶつ 致知 ちち しゃく す。 しか して今亡 いまほろ ぶ。 このこ こころ みに ひそ かに程子 ていし ってもってこれを おぎな って いわ く、 所謂知 いわゆるち いた すは もの いた るに りとは、 われ いた さんと せば、 もの いてその きわ むるに るを うなり。 けだ 人心 じんしん れい あらざる し。 しか して 天下 てんか もの あらざる し。 において いま きわ めざるあり、 ゆえ にその知尽 ちつ くさざるあるなり。 ここ をもって 大学 だいがく 始教 しきょう は、 かなら 学者 がくしゃ をして およ 天下 てんか もの きて、その すで るの によって 益々 ますます これを きわ め、もってその きょく いた らんことを もと めざる からしむ。 ちから もち うるの ひさ しきに いた って、一旦豁然 いったんかつぜん として貫通かんつう すれば、 すなわ 衆物 しゅうぶつ 表裏精粗 ひょうりせいそ いた らざるなく、 吾心 わがこころ 全体 ぜんたい 大用 たいよう あき らかならざるなし。これを 物格 ものいた ると う。これを いたりと う。

遠雷: 伝五章という一番難しいところです。海輝さんと耕大さんに補足してもらいましょう。

一期: 宇野さんと諸橋さんのを読んだのですけど、まだ諸橋さんの方が「おお」と思うところがあり、読んでいるとどうしても、、、諸橋さんのところを読まさせていただきます。(諸橋さんの解説を読む)ほとんど読ませていただいただけで、何度も何度も読んで、その通りと、たまごとにわとりのようだと思っても、自分の言葉で説明することができず、、、すみません。

海輝: 宇野さんの本では最初の一文、「これを本を知ると謂う。これを知の至りと謂う。」ここの一句は衍文ならんというとあり、いわゆる経文の末におけばよいということになっています。

遠雷: もともとは経文の中に入っていたもので、朱子が自分で補足書きますと書いていますが、、

耕大: こういう考え方は『論語』にはなかったと。どこから出てきたのか。物事をあきらかにすることによって自分の中の明徳を明らかにするというのは、物心が一如であるということだと思いますが、論語にそうした教えは無かったので、孔子様の説かれたものとはかなりかけ離れた解釈と思いました。

遠雷: 宇野さんはこれはいらないと書いてあるのですが。

耕大: 一つの考え方としては理解できますが、あまりに孔子様の仰っていることとは離れているのかと。

遠雷: 東洋の方は真理についても直観で書いている人がいると思うのですが、朱子はどうだったのでしょうか。

帆士: 明徳を明らかにしていればよいですが、色々な本を参照しながら感じるのは、自分で実践していた感じを受けないというか、本質(理)をやはり体得していなかったのではないかと思う。

遠雷: (朱子の明明徳と窮理が)根本のところは一緒というのは納得がいく。

帆士: 太極のもともとのところとか、易経の中でも語られている。

小雪: ここで「理」が出てきますけど、孔子様は「理」なんて語ってたっけ?と思い、『朱子学』(木下鉄矢/講談社選書メチエ)という本の中の、朱子の説く「理」について解説してるところをみたら、朱子は最晩年の著で「太極図説に云う太極もまた理というに尽きる」と断じた本(『太極図説』)の解説本を出しているので、別のものを読んで自分の中で統合して整理したのかと思う。

小雪: 自分なりに解釈して、他のものも吸収して書いたのかと思う。

遠雷: 朱子は大学の始教は格物致知と言っていて並び替えています。宇野さんの解説によると、王陽明は大学の始教は誠意だと言っている。「物」の捉え方もいろいろあって、朱子は事物の理であると言っていて、そうでない読み方もあって、「天下国家心身意」という解釈もある。「格」については、朱子は「至る」と読んでいて、王陽明と伊藤仁斎は「正す」と読んでいる。「来す」という人もいて、なかなか極めがたい。

遠雷: 朱子は自分の思想を盛り込んだ。格物というのが先にあるというのが朱子の考え。格物とは何なのかというのと、理を極める、窮理というがどういうものかという理解が難しい。究極の理は明徳に繋がっていくというのがあると思うが、アリストテレスのような博物学的な知識だと、明徳に繋がっていくものだろうかと思う。

帆士: 一つ一つを窮めていく。そしてまだわからないのは窮めるのが足りないという話になっていく。それはどこまでも続いていく。

遠雷: 窮理は読書とあるのでますますわからない。

小雪: 方法論としてはありではないか。

十舟: 読書も現代人の考えてる読書ではなく、二宮尊徳のような読書だと違ってくるのでは。(二宮尊徳が、大学を相当読み込んだという逸話を踏まえて)

遠雷: 本質について語られている物を読むということだと、それなりの人物だと読み取れる。

秋実: 二宮尊徳だとそこをどう読み解いて、実現していくのかというのが読書と感じる。

帆士: ただ考えるのも、感情や誰かからの思想に植え付けられたものではない客観的なものであるか。そこが問われている。

遠雷: 奴隷制度に支えられた暇人の思惟ではなく、自然に基づいたものだと。

帆士: 間違ってはだめと。

山吹: 全部網羅するということではなく、一つの事を徹底的に極めていって思考の回路を作ればよいのかなと。

遠雷: 格物致知というのが大学の始教といわれると、それがわからないと先に進めないということだから。

耕大: 『論語』でも、孔子様は常に謙虚であり、自分はまだまだ学びの途中であるということを常々おっしゃっていて、だから止むことなく学び続ける必要があるということをおっしゃっていました。それも格物と言えるのかなと。致知とは、結局はそうした学び続ける中で、より高いもの、より深いもの、より完成されたものに至るという意味になるのではないか。それこそが、格物致知と言えるのではと思います。

遠雷: 宇野さんの解説を読むと、朱子の知は後天的知識とあって、王陽明は先天的良知とある。

十舟: 後天的知識もないと、、進歩や改善もできないのでは。

帆士: それは知と言えるよね

遠雷: 「人心の れい 、知あらざる莫し。而して天下の物、理あらざる莫し。」とあるが、知はやはりもともとあるもののことを言っているような気がする。

十舟: もともとあるものを引き出すものとして、読書とか学ぶというきっかけがないと。

帆士: 孔子様もそうだからね。そこに本質的なものを見出したのがすごいということだものね。

遠雷: 豁然として貫通すれば、明らかになると。

帆士: そこは直観と言っているのだよね。

遠雷: 豁然として貫通するというのは今まで積み重なっているからぱっと見えてくると。それまでは積み重ねていくのだよね。貫通するまでは。でもここが元と言われるとね、誠意から始まってくれないと。難しくしてしまっている。宇野さんも無用と言っているから。

遠雷: わからないから誠意から読んでいきたいという気がする。

帆士: 本当に誠意でいいのかな。もともと備わっているものだからいいのかな。

空蝉: 誠意というと自分では誠意と思っていても本当に誠かどうかはわからない。生まれながらに持っている明徳を明らかにしていく方が間違いにいかなくてすむのかと。

帆士: 誠意があるからそこにいくのかなと。それがあるから初めて誠意に尽くして、もっと窮めようとするのかと思う。もともと誠があってそっちに行けるのではないか。格物致知が先にあるのかな?と思う。誠があるから更にその誠を尽くす、それが格物致知への道に繋がっていくような。

空蝉: 真理に囲まれているから、気付けるのでは。

帆士: 真理って法縁があるかどうかというのもからんでくるし。こういう本自体も読もうとしない人もいる。卵と鶏じゃないけど、格物致知が最初というのは誠実に生きようとするからそこに至るというのではないのか。ある種の純粋性があるからそっちに向かっているという気がする。わからないけど。

小雪: 感想でしかないけど、最初に結論言われたなと、提示されて、ここが最終地点という気がする。格物致知つまり、理を窮めること。そうだろうという気がする。

帆士: 格物致知が方法論ではないかと。理を窮めるのが目的?

山吹: 私も方法論としてとらえた。

帆士: 理を極めるとどうして思うのかなと。本を読んでそう思うのかなと。誠を尽くそうとするから天から授かったものは何かと思うのかな?物理学者は、、、誠がなくても極めれば誠実になっていくのかな。

耕大: 『論語』の中では、子夏に対して、汝君子の儒(学者)となれ、小人の儒となる莫れとありました。帆士さんが言っているように、誠が必要だというのはあるのではと思う。

帆士: ますます誠意が高まるという意味合いで捉えると方法論を言っているのでは。

遠雷: 格物致知が最初にあって。

帆士: 孔子様もそうだったからね。 それを最終目的とは思っていない。理はその上であるものと思う。自分の執着を捨てるということでしょ。それがわかれば捨てると必然的に至るのかなと思うのだけど。

遠雷: 小雪さんの話を聞いていて思った。思惟することかなと。それを通じて物の理を極めていくのかなと。

帆士: 座禅等で、直観で把握する。

遠雷: 究極ものが最初にくると、先に進めない。

十舟: 素直に捉えると(格物致知)、「学びの始め」ということと捉えました。

遠雷: 素直によむと最初は学かなと。それですんなりくる。

十舟: 理についてそこから学び始めると。

遠雷: それはひとつ考え方として良いのかなと。難しい解釈に振り回されているのかなと。

十舟: 本も解釈もいっぱいあってわけがわからなくなる。

遠雷: 学びの初めだしそれがすんなりくる。

十舟: 後から解釈人がいっぱい出てきて、枝葉末節的なところに行ったり、自分なりの解釈を正道として広めて行ったりして、大本はどうだったのかという気がする。

遠雷: 儒教で訓古学というのが流行っていった。朱子とかが生きたものを学ぼうとした。

十舟: 余計なものをやっている気がする。部分部分はピンと来るところもあるけど本筋とはずれているところもあるかなと。

帆士: 会得した上での解釈というものがない。

遠雷: 素直に学びから始まると読んでいくと格物致知という言葉に振り回されることなく誠というもの見えてくる。次回読む「誠意」の章には、曾子様の「十指、十耳」の話が出てくる。人が見ていなくても自分を慎むということが言われている。それを学ぶ、学問することからそういう修養も出てくるのかなと。学がないと修養にも進まない。

帆士: 孔子様が、学びて思わざるは則ち罔し、思いて学ばざるは則ち殆し。と仰っている。

遠雷: そうやって読むと小難しい議論でなくすんなり誠意に進んでいけるのかな

帆士: せっかく『論語』を学んでいるから、立ち返って読むのがいい。順番変えているだけだから多少の違いはあっても言っていることは一緒か。

遠雷: 格物致知については敢えて言うことではなかったために書かれていないのかもしれない。一つの方向性が見えて良かった。十舟さんのシンプルな読み方が良かった。

空蝉: 以前に白板に書いてもらったように、明明徳のために、「格物・致知」の学問と、「誠意・正心・修身」の徳行で修己だから、取りあえず格物致知は学問ととらえてしまってよいのでは。明明徳には学問と徳行と両方必要。一緒にやっていけば良いのでは。

遠雷: 学問と徳行の両輪というわけですよね。難しい議論でなくて如何に実践に結び付けていくかが大事。 思惟 しゆい を実践すること。次は誠意から読ませていただきたい。次回は誠意から伝八章まで行きますか。62ページまでいきたいと思います。

以上