東洋哲学研究会
2017.04.09
『大学』大学章句 経一章~伝二章
論語勉強会議事録
2017年4月9日(日)17:30~18:50
開催場所:春秋館
議事内容:本日は『大学』大学章句 経一章~伝二章を学びました。
テキスト『大学』 宇野哲人全訳注
概要
今回から朱子(朱熹)の大学章句に従って、『大学』の本文を読み始めました。朱子が私淑した宋の程明道・伊川両先生は、『大学』を「初学徳に入るの門なり」とし、『大学』を読んでから、『論語』『孟子』と読み進めるのがよいと説いています。
実に、『大学』では、儒学の教えが組織的に系統立てて説かれています。大学の道には、「明明徳」「親民(新民)」「止至善」の三つの大綱(三綱領)があり、己を修めて(修己)、人を治める(治人)ことが示されます。
すなわち、格物・致知から始まって、誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下へと展開します。天下を平らかとするもととなるのは、己を修めることであり、それによって、家が
国の発展は、国民一人ひとりが道徳を身につけることにあり、教育こそが国の礎であり、家庭の安定が欠かせないものであることをあらためて認識しました。学び実践することで、自らの内に具わる普遍的なる基準を呼び覚まし、人として完成することを目指す。何を学び、何を身につけることが人生において最も大切なことか気づくことができたように思います。
各論に入って、伝一章で「明明徳」、伝二章で「新民」を読みました。
議論
遠雷:今日は「朱熹章句~経一章~伝一章~伝二章」を読みます。帆士さんから指摘がありましたが、今読んでいるのは朱子が章句を分けて注釈している版ですが、朱子はもともとの『礼記』にあった「大学」(旧本)とは順番を変えています。 「大学」旧本では、朱子の伝六章が最初に来て、誠意について語られています。その次が伝三章の後半、伝首章~伝三章前半、伝四章となっています。伝七章以降は旧本も同じです。 今日は経一章から読みます。一番大事なところです。次回は、「格物致知」について議論ができたらと思います。
大学 朱熹章句
子程子曰、大學孔氏之遺書、而初學入德之門也。於今可見古人爲學次第者、獨賴此篇之存。而論孟次之。學者必由是而學焉、則庶乎其不差矣。
山吹:まず最初にこの一説は大学の本文ではなく、子程子両先生の解説である。2名の先生がおっしゃるには、大学のために残した書物で、儒教を学ぶに入門の書である。学ぶ人はこれを読み、次いで、論語、孟子を読むべきですとあります。
遠雷:このあとに大学の本文が続きます。
大学
大學之道、在明明徳、在親民、在止於至善。
謙二:前回遠雷さんから解説があったように、とても大事な章。明徳、新民、止至善がでてきます。明徳は天から授かった自然の徳即ち人間の性を明らかにし、その性を正しき方向に修養する、新民は民百姓をして己と共に各々その明徳を明らかならしめ、今日は 昨日よりも明日は今日よりも更に新たなる新生涯に入らしむる、止至善は各々の項目につき最善を尽くす、考えを定めれば動揺せず静かになり、安んずることができる。諸橋さんでもその3つが大事だと解説されている。新民については、朱子は「親民」を「民を新たにする」と解釈させた。もともとが、民に親しむにありで朱子が民を新たにするとしているところが論点です。
遠雷:程子が「親はまさに新に作るべし」といって「新」と読んでいたのを、朱子も「新」と読んだ。
謙二:両方とも非常に意味がある。なぜ朱子が新と読んだかというと、『論語』を読むと、日々積み重ね積み重ね新たに行っていかなければならないのを思うと、また曾子様が任重く道遠しとか日に吾身を三省したり、日々のありようを大事にしているところは、新しきというのもそうかなと思う。まずは己の修身にあって、それから国にある。一方で為政者たる君子にとっては、親しみという言葉も正しいでしょう。両方の解釈に賛同できます。
遠雷:常に日々自分を新たにして前進していく。その姿勢が書かれている。単に民に親しむのではなく、自分が明徳を明らかにする、その姿勢を民にも明徳明らかにせしむるということで、新しいほうの新民といっているのではないかと思います。朱子と対立する考えを主張する王陽明がいますが、朱子の解釈に対して、原典(『礼記』)に戻ろうという姿勢です。
謙二:格物のところもそうですよね。朱子は格物を重視、陽明は致知を、そこで分かれる。ただ言えることは、明徳と新民、君子のみならず民たちが自ら変えられるのが大事。現代には特にそう言えるのでは。そういう意味では新しいを採用しても僕は合点がいく。
蒼生:古注の方は明明徳の主体が施政者の側で民を親しむ。新注の方は主体が一般人までとなっている。「民を親しむ」と「民を新たにする」の両方の意味となるが、どちらも良いのではないかと思う。
謙二:民側なら自分ができることをやろうと。ケネディ大統領ではないが、国民は、国に何をしてもらえるかを求める前に自分が国に何をできるかを考えよと。
遠雷:朱子は自分ができることは民にも及ぼしていこう、展開していこうというスタンス。
謙二:どちらも大事ですよね。
空蝉:どちらかというと、親しいほうがストンとくる。他人に対して新しくしろは無理がある。明明徳した方が、民に親しみ、影響を与え、教化していくと。
帆士:朱子は民をどう思っていたのか?
遠雷:元々明徳は民にも備わっているのだから、という理想主義的な感じがする。『論語』を読んでいても朱子の解釈はとても理想主義的というのを感じていた。『大学』でもそういうところがある。親しいだと素直にストンとくるが、新しいだと思想が込められている感じがする
蒼生:(古注の)君主(施政者)が「民を親しむ」もそれはそれで素晴らしいこと。新注の一般の人にも明明徳を求めるというのも、ある意味「民を親しむ」という意味になるのではと思う。(朱子が民を軽視しているとは一概には言い難いのでは?)
帆士:私がその逆で、朱子学は国教にはなったけど、朱熹自身は左遷されていた。
凪沙:朱子って、飢饉で民に米を配ったという話がありませんでしたか?民を慈しむ、自ら儒教の教えを実践しようという思いはあったのではないでしょうか?(※後で調べ直しましたが、米を配ったのではなく、「朱子の社倉法」というもので、凶作に備えて農村に米を貯蔵しておく制度を作り、多くの貧民を救ったようです)。
遠雷:朱子は、すべての人に本然の性(四徳)がそなわっていて、君子は自身の明明徳に努めると同時に、民にも明明徳を推し進めるという考え方ですが、現実はそうではない。マキャベリズムが現実。
謙二:民に警鐘じゃないけど、日々考えなさいよと。
遠雷:理想的。そういった傾向を考えて読んだほうがいいのではないか。
帆士:文章の順番を変えたり、というのもあり、独自のものになっている。
遠雷:格物致知がなんだかわからないというのもあります。
帆士:物をどう解釈するのか、格をどう解釈するのかもある。
遠雷:窮理というのと居敬というのがある。両輪かなと思う。
帆士:あと読書もいいと書いている。
小雪:『論語』を読んでいた時の、朱子の解釈についての「?」という感覚も大事にしておいたほうがよいと思う。
知止而后有定、定而后能靜、靜而后能安、安而后能慮、慮而后能得。
凪沙:至善に至るための段階を解説している文章です。金谷さん訳では「ふみ止まるところがはっきりわかってこそしっかり落ち着き、落ち着いてこそ平静であることができ、平静であって安らかになれ、安らかであってこそ物事を正しく考えられ、目標を達成できる」と。「至善」を「最高の善」と訳している。仏教的にいうと解脱した状態のことかなと思いました。
遠雷:本然の性(四徳)に向かって進み、そこに安んじるところまでいく。それを得る。
凪沙:仁義礼智に至る段階を示している。『大学』って段階をよく述べていて、この文もその一つだと思う。
物有本末、事有終始。知所先後、則近道矣。
備後:この章は、何事にも本と末があり、それをきちんと把握することが肝要であると、いう内容。各解釈本で大差ありません。本と末をしっかりと把握して、本を抑えることにより、前述の三綱領を実践すべしということ。
帆士:この道って、大学の道なんでしょうかね?
遠雷:『論語』学而第一にあった「君子は本を務む」にもつながるのかもしれませんね。
古之欲明明德於天下者、先治其國。欲治其國者、先齊其家。欲齊其家者、先脩其身。欲脩其身者、先正其心。欲正其心者、先誠其意。欲誠其意者、先致其知。致知在格物。
砂涼:ものの順序を言っていると思います。宇野さんの解釈ですが、天下の本は国にあり、明徳を明らかにしたいなら、まず人を教化して、国を治める。でも、国の本は家であり、一国を治めたいなら、家を整える。家を整える前に、自己の身を修める。その前に心を正しくする。意を誠にしなければならない。その前に、六芸を研究してその道理を極める。という順序を述べています。大学の八条目と書いてあります。
遠雷:格物致知から始まるわけですよね。
帆士:私は、誠があって、すべてが始まると思っていた。それがあってこそ格物致知がある。知を致してから、誠になるの?というのがクエスチョン。
蒼生:私も同感です。
遠雷:「大学」(旧本)では誠意がまずあって、だった。もともと格物致知はなかった。朱子はこれを伝五章として独立させて、さらに自分で補足を加えている。
帆士:ちょっと偏っている感じがしている。
蒼生:個人的嗜好ですが、「先誠其意。欲誠其意者」は大学の好きなところで、意を誠にす、で終わってもいいのかと思いました。
遠雷:朱子が伝五章で独立させた「これを本を知ると謂う。これを知の至りと謂う。」は、旧本では(朱子の)経一章の最後にあった。
物格而后知至。意誠而后心正。心正而后身脩。身脩而后家齊。家齊而后國治。國治而后天下平。
柚子:これも最初の文章を短くしている感じで、六芸を窮め尽くして後知至る、知至りて後意誠、意誠にして後心正しく~と順序が書いてある。
遠雷:格物について、宇野さんの解釈では六芸を極めるだと解釈している。これが正しいのかどうかは議論の余地がある。さっき帆士さんが言っていたように、朱子は格物の格は「いたる」と読んでいるが、王陽明は「明らかにする」と読む。ここはまた後ほど議論をしたい。
自天子以至於庶人、壹是皆以脩身爲本。其本亂而末治者否矣。其所厚者薄、而其所薄者厚、未之有也。
梅花:諸橋さんの解説です。上天子より下庶人に至るまで皆自分の身を脩むるという事を以て根本として居る。もし其の根本たるものが乱れて来れば其の末の能く治まろう筈はないのである。身が治まらなければ治国平天下と云う事は望み得るものではない。一家を治るの道に於いて不十分なる者が、国家を治るの道に於いて十分に行く道理は有り得ない。
遠雷:厚うする、薄くするというのがわかりにくい。
帆士:そのって修身をもって本をなすということ?
小鳥:自分の身を修めたら、家族に伝わり、国に伝わり、それが伝わらないのなら違うんですよと言っているのではないか。
遠雷:人情が厚いか薄いかなんですかね。この解説によると。
帆士:国家より家のことをやるのが自然ということ?
小鳥:(修身を)自分の骨肉にできていたら、必ず家にも影響し、国にも影響する。順番としては納得するものがある。
帆士:大学は政をする人の為のものだから、まず大きく国を治めることから始まって、そして家の中のことも述べている。そのことを言っているのでは?
小鳥:修身してだんだん影響することだと考えると、逆に国を治めることから考えた時でも、宇野さんの解釈なのかもしれないが、「まず、教化をもってその一国を治め、みな善に従わしめ、四方をして観て感動せしめる。(04 古之欲明明徳於天下者~の宇野さんの通解より)」という(せしめる、という)言葉が使われるのが、違う感じがする。
遠雷:意味がわからない。
凪沙:金谷さんの訳は修身のことを言っているように読める。「天子から庶民まで、同じように皆わが身をよく修めることを根本とする。その根本が出鱈目でありながら、末端が治まっていることは、めったにない。自分で力を入れなければならないことを手薄にしながら、手薄でもよいところが立派に出来ているという例はない」と。修身ができていなければ、平天下もないという意味では?
降人:矢羽野隆男さんの解釈ですが、身を修めることを根本とするとすると、まず手厚くすべきは修身や斉家であって、治国や平天下のことは後ということになるだろうと解説してますね!ここは、身を修めることが根本であることを言いたいがために、それを強調した表現を取っているんだと思います。
帆士:解釈だけ読めばわかるけど、原文みても、わからない。
遠雷:人情の薄いか厚いかという解釈もある。中国では何か特別な意味があるのか?
蒼生:日本とほぼ同じ意味です。
遠雷:厚くすべきところを薄くしてはだめだし、薄くするべきところは厚くすることはないということ?
謙二:現代社会でも組織が大事といっても、組織という生き物があるわけではない。結局は人。国もそういうことで、大学でも構成する人が本となって国を治めているということでは?
降人:政治は後回しで己を修めるのが大事ということでは?
蒼生:天子も庶民も修身が大事ということでいいでしょうか。
右經一章、蓋孔子之言、而曾子述之。其傳十章、則曾子之意、而門人記之也。舊本頗有錯簡。今因程子所定、而更考經文、別爲序次如左。
小鳥:(経一章は)孔子様の言われたことを曾子様が述べたもの。(伝十章は)曾子様の意見で曾子様の門人が記したもの。(在来の本は)本文が前後した所があって、(参考は)宇野さんの本でした、そのまま読みます、程子が定められたところにより、別に次第順序を定ること左のごとし。程子が付け加えたり、並べ方を変えたりして本を出したのが次の文章ですよ、と書いてあります。
遠雷:順番を変えたのは程子ですが、経と伝に分けたのは朱子のようです。
小鳥:かけているところを補った。
遠雷:曾子様が孔子様の言葉を述べたここまでが経一章。曾子様が孔子様の言葉を述べたと朱子は言っている。ここから伝首章、二章へと進んでいきたいと思います。桃太さんお願いします。
伝首章
康誥曰、克明德。太甲曰、顧諟天之明命。帝典曰、克明峻德。皆自明也。右傳之首章、釋明明德。
桃太:明徳を明らかにすという部分を説明してあります。それぞれ書経の一節になりますが、「康誥」では、周の文王が、実例を行っている事を通じ明明徳の説明しています。「太甲」のところでは湯王の努めたところを通じ、明明徳が述べられています。「帝典」では皇帝の堯が自らの大なる徳を明らかにした事で明明徳を実現しました。これら3つの例は古人が明徳を明らかにした実証であるとしています。
伝二章
湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新。康誥曰、作新民。詩曰、周雖舊邦、其命維新。是故君子無所不用其極。右傳之二章、釋新民。
遠雷:帆士さんが特に好きな言葉ですね、
帆士:日々新たに、また新たなり。すごいですよね。
遠雷:盥に銘が刻まれていたら、毎日目に触れる。
帆士:そうかもしれないし、まあいい。
遠雷:「右伝の二章。新民を
帆士:完全に直しちゃってますものね。本来の順番を変えたものと、自分の思想と混在していますよね。他の本と参照すると頭がこんがらがってきます。
遠雷:伝六章までは順番を変えているなと思います。(旧本の同じ箇所を確認して)やはり、「右伝の二章。新民を
帆士:根拠が無いですよね。朱子学を長い間皆が勉強しようと思っているから、それに価値はあると思いますけど。
遠雷:曾子様が言った言葉としてなっているけど、朱子の創作?
遠雷:(帆士さんから、朱子について)こんなの、と言う気が伝わってきます。なぜそんなに朱子に対して。。。。
謙二:時空を越えて何かがあるんですよ。
秋実:陽明学派なの?
小鳥:朱子は(曾子様のお言葉を)どこから仕入れてきたの?
遠雷:『論語』が孔子様、『中庸』が子思様、『孟子』は孟子様、すると曾子様の著作がない。だから朱子は『大学』は曾子様にしたんじゃないかという説があります。
帆士:もちろんあると思います。
遠雷:『大学』と『中庸』は『礼記』から独立して読んだほうがいいと、朱子と同時代の日本人が、朱子とは関係なく、いっていたという説があります。やはり『大学』と『中庸』は『礼記』中で特殊な位置づけだったと考えられます。二宮尊徳が読んでいたのはやはり朱子でしょうか。
帆士:コメント一杯残していますよ。大学だけで、ほかの勉強しなくていい。というエピソードがある。
降人:最初に読んだのが、二宮尊徳。
帆士:一円相をしたためるんだからすごいよね。
遠雷:『中庸』とか読んでいたんでしょうか。
降人:四書五経をそっと聞いて覚えたと。
謙二:二宮尊徳の時代は夜が長かった。思考する時間があったとされてます。情報量の多さだけではない。情報が多い現代においても考えることが大事だ。尊徳さんは『大学』のこれだけで十分考えられたといえるのではないでしょうか。
遠雷:内容が思惟するに値するだけのものが含まれている。
帆士:大学は言っていることはわかるけど、難しい。
遠雷:何度も読んで理解していく。
秋実:自然の中から色々と学び取って理解していたのではないでしょうか。私達は自然に触れることなく日常に流されてるけど。
秋実:弟を教育するのに必死になって働いていたから、根本が違う。
謙二:1秒の使い方が真剣なんでしょうね。
遠雷:二宮尊徳さんも、そこ(『大学』)から学び取るところはすごいのかな。格物致知にトライしますか?朱子と王陽明の説がある。とんでもなくいろんな説が一杯あるらしいのですが、違いを議論してみますか。『大学』は日本の儒学を学ぶ上ですごく大切なものなので。
帆士:陽明学は悪も善もない、どちらもありえる、本来はそれを区別するものではないというのを説いている。
遠雷:次回伝五章までいって、格物致知についてわからないなりに議論したいと思います。ありがとうございます。
以上