東洋哲学研究会

2016.05.22

論語 顔淵第十二 11-20

論語勉強会議事録

2016年5月22日(日)16:30~18:30

開催場所:春秋館

議事内容:本日は、顔淵十二[一一]~[二〇]を学びました。

テキスト「論語の講義」諸橋轍次


顔淵第十二 11

齊景公問政於孔子。孔子對曰、君君、臣臣、父父、子子。公曰、善哉。信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾得而食諸。  

せい 景公 けいこう まつりごと を孔子に問う。孔子 こた えて曰く、 きみ 、君たり、 しん 、臣たり、 ちち 、父たり、 、子たり。 こう 曰く、善いかな。 まこと し君、君たらず、臣、臣たらず、父、父たらず、子、子たらずんば、 ぞく りと いえど も、 吾得 われえ これ くらわんや。

議論

北星:「君、君たり、臣、臣たり、父、父たり」、今の日本は大丈夫なのか?

冥加:「私も景公のように、分かったと言いながら、行動が伴っていないことだらけです。」と言った舌の根が乾かぬうちに、反省します(二度と致しませんという意)と書きそうになる自分がこわいです。

麦秋:中国は臣が君を しい してしまった国柄。日本はそれを何とか食い止めた国柄。

凡知: 景公 けいこう は聞くだけ聞いて納得するんだけど、結局実践しない君たらずの人であったのでは。

冥加:ここの軸足は無反省ぶりなのか、君、君たり・・なんだろうか。

北星:孔子様の「君、君たり、臣、臣たり・・」というお言葉は大事だと思うが、どちらかというと せい の景公の無反省ぶりを記した章と感じる。

凡知:君子と言えず、そのような人だと言いたいのでは。後の子路第十三[三]「必ずや名を正しうせんか」(名分を正す)に同じと思う。

冥加:正名思想。中国、戦国時代に盛行し、名実論ともいわれ、名称と実質との一致を志向する思想。政治思想的なものと論理学的なものとの二傾向があるが、前者が主流となっている。正名論の発端は、政治の急務は名を正すことにありとの孔子(孔丘の主張であるが(『論語』 子路篇 しろへん ))、その具体的内容は、たとえば君臣父子がそれぞれ君臣父子らしくあれというもので(同上顔淵がんえん篇)、名称にふさわしい実質であればよい統治が行われるという考えである。『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説。

凡知:君子は君子たれ、、、きちんとせねば世の中が乱れる。

北星:この後の章でも同じように季康子の無反省ぶりが皮肉のように記されている。

瑠璃:景公が本分である役目、使命を果たしていないということが、孔子様のお言葉の主たる意味かな。

柴里:「論語の講義」(諸橋轍次著)の季子第十六[一二]の解説に「斉の景公は馬 せんし 有り、死する日、民、徳を たと うる無し焉」とあるように、凡庸で欲深い人だった。何故国が乱れたか、家老の陳公が実権を握っていた。

奏江:冥加さんの話に戻ってしまうが、景公は「かくあるべき根拠を反省して探求することがわかっていなかった」と朱子の解説にもあるが、わかっていてもやめられなかった。信が無かったのではないか。政治家としてはこれではダメですよね。

冥加:トップではダメだよね。景公は、あまり政治に興味ない。自分の欲に興味があったんだろう。

奏江:分からなかったのかな。

北星:景公は全く分かっていないと思う。自分の事ではないと思ったのでは。景公は自分の事を理解していない。

瑠璃:女性にはまっていた。多数の夫人を寵愛していた。

筑波:君が君らしくということから、西洋では英語のvirtue(徳)の語源はラテン語のvirtusで、男らしさを意味していたようです。

柴里:vir はman男。

奏江:英語の徳と孔子様の仰る徳は違うのでは。

瑠璃:こんなダメな景公であっても、君であるから、孔子様は礼をもって接しておられる。

顔淵第十二 12

子曰、片言可以折獄者、其由也與。子路無宿諾。

子曰く、 片言以 へんげんもっ て、 ごく さだ き者は、 ゆう なるかと。子路は だく 宿 とど むること無し。

議論

凡知:【参考】「子路無宿諾」はもとは別章であったが、 邢昺 けいへい が合わせて一章とした。

凡知:【参考】 片言 へんげん →「論語解義」(簡野道明著)より、「 孔安國 こうあんこく 曰く、 へん かたよりの如きなり。 うったえ くは必ず 兩辭 りょうじ ち、以て是非を定む。一言を 偏信 へんしんして以て獄を さだむる者は、 ただ子路のみ可なり」と,「尹焞 いんじゅん(北宋の儒者1061-1132)曰く、言簡 げんかんにして理に あたる。故に片言以て罪人を服せしむべし」

北辰:子路が、ただ一言を以て訴訟事件の判決を下せたのは、子路が強くて恐れられたこともあると思う。子路が弱々しい人物だったなら一言を以てということにはならなかったと思う。

冥加:子路は、 いかだ の材料もないうちに飛び出そうとする早とちりのところがあるので、人を裁けるではなく、吉川幸次郎氏の注にあるように、裁かれる立場(参考人とかの証言者、正直者を強調した。)であったら、という説を採りたい。

麦秋:子路の人間味のある違った一面を垣間見れたと思いました。

柴里:子路さんがめずらしく持ち上げられている。ここでは片言以の解釈は一方の言い分を聞いて判断できるという事と、途中まで聞いて判断できるの2通りの解釈がある。また、無宿諾(しゅくだく)は、承諾したことを行なわないことはない、という解釈と、あらかじめ承諾をしない(安易に承諾しない)という2通りの解釈がある。

北星:片言という意味は、子路が一言でズバッと判決を下したと解釈した。子路は強くて恐れられていたので、うむを言わさずと想像。子路には逆らえない。

瑠璃:そうかもしれません。怖かったら従うかも。でもここは良い意味での子路に対しての評価だと思う。子路は単純だけど素直なところがある。正しい判断がすぐに出来たとしてもいいのでは。

北星:異論があっても誰も言えない。

筑波:子路のどういう性格をもって判断したのだろう。

北星:強い。粗暴で恐れられていたが、強さは長所。孔子様のこのお言葉は褒め言葉。

冥加:正直者だから、子路の話だけを聞けば事実が分かるということ。

正志:この頃の裁判は利益調停が主ではないのかしら?利益調停なら、嘘の言い合い・利益の主張しあいで、実態が判りにくいし、一刀両断は難しい気がするのだけれど。

重只:利益調停?

北星:昔も今も 訴訟 そしょう の内容はそう変わらないと思う。人の争うことは今も昔も同じようなもの。ただ、判決の仕方が違うのでは。当時は裁く人の主観が多く入ったのでは?

筑波:子路は迷わなそう。

北星:例えば、孔子様と子路では違う判決を下すこともあると思う。

奏江:吉川幸次郎氏の解釈で、率直になる事で慎重となるという所が分からない。

柴里:公冶長第五[一四]より、子路は、孔子様からお教え頂いた事を出来るようになるまでは、次のお教えを受けないという慎重さあり。

凡知:裏表がないから、直という話になる。直は表裏はないが、孔子様は事実をそのまま言うのだけが直とは言われない、父子が互いの為に泥棒(悪事)をしたのを隠すのは直でないようであるが、その中に直の義はある(子路第十三[一八])。

朝顔:これは孔子様が子路を賞賛されたのですよね。

北星:間違いなく称賛されたのだと思う。

筑波:子路は一本筋が通っている感じがする。

奏江:判決をくだすのは難しい。子路のこういった場で発揮される能力に対する賞賛ですよね。

瑠璃:これを語られたのが、子路の生前かどうか不明。


顔淵第十二 13

子曰、聽訟、吾猶人也。必也使無訟乎。

子曰く、 うったえ くは、 吾猶人 われなおひと のごとし。必ずや 訟憮 うったえな からしめんか。

議論

凡知: 陳櫟 ちんれき (南宋末・元時代初の学者1252-1334)曰く、 うったえ を聽く者は、民の爭を決す。訟なからしむる者は、 躬行 きゅうこう して民を化し、 しか して民自ら爭はず、訟を聽くべきなし。之を禁じて しか らしむるに あら ず。 默化濳孚 もっかせんふ (口に言はずして誠を以て感化するをいふ)して、之を 使 せし むるが ごと くなるのみ」(「論語解義」簡野道明著)

冥加:皆が私心、私欲から離れられる人、社会になれば訴訟はなくなると思いますが、三千年後でも未だそのような社会は来たらずです。論語の心を学び、実践し、孔子様が目指された社会、徳によって治まる社会の実現に向かうことが大事。

柴里:訴訟を裁くのではなく、そのものを無くしたいという孔子様の想いが語られている。


顔淵第十二 14

子張問政。子曰、居之無倦。行之以忠。

子張 しちょう まつりごと を問う。子曰く、之に りて むこと無かれ。之を行うに ちゅう を以てせよ。

議論

凡知:論語に子張について記載された章は、子張第十九[一五]「子游曰く、吾が とも ちょう や、能くし難しと爲す。然れども未だ仁あらず」と、子張第十九[一六]「曾子曰く、堂堂たるかな張や。 とも に並びて仁を爲し難し」がある。

冥加:飽きてしまうのは、物事の変化を捉え切らずに、変わらぬものと感じ、脳に新鮮な刺激を感ぜずに興味を失うのか、目的意識に乏しいからではないか。

柴里:子張という仁に疎い人物に対して、孔子様が対機説法をされた。

奏江:飽きる事に関して、朱子の解説で「子張は仁が少なく、誠心から民を愛することが無かったので必ず飽きて心を尽くさないようになる」とあります。私の性格の飽きっぽいところはこのようなところに原因があるのかな。

柴里:居之は、位にいるという解釈と、「心に存す」として忘れないという解釈がある。

重只:初心忘るべからず、という事でしょうか?

冥加:倦む子張には、愛が無い。

瑠璃:飽きてしまうは、誠が無い。

重只:刺激を求めて政治の世界に入ったのでしょうか。

冥加:最初から愛していない。

凡知:子張は何でもある程度できてしまうから。同じ事をやると飽きてくる、手を抜く。

北星:飽きるのは志が無いから。

柴里:職人の様に究めようとしない。

瑠璃:子路も同じ事を言われている。

重只:前の章で孔子様が本気で世の中を訴訟の無い国に変えたいと仰っていた事を考えると、みな未熟に思えたのではないでしょうか。本気で変えようと思っていたら飽きたりはしないですよね。

奏江:大元を正し、その源を清めれば、全員が仁者になれば訴訟は起きないんですよね。


顔淵第十二 15

子曰、博學於文、約之以禮、亦可以弗畔矣夫。

子曰く、 ひろ ぶん を學び、之を やく するに れい を以てすれば、 また 以て そむ かざる し。

議論

冥加:禮とは、対象と自然な対し方で向き合うことと思っていますが、肝心な自然な対し方が、心に欲するところに従えど のり えずとなると見当もつきません。自然を愛情に置き換えて、愛情を持って接していれば、救いはあると思って行動したいと思います。

柴里:重複のため飛ばします。

(重出――雍也第六〔二五〕)


顔淵第十二 16

子曰、君子成人之美、不成人之惡。小人反是。

子曰く、君子は人の美を成し、人の惡を成さず。小人は是に反す。

議論

凡知:「成」の義: 誘掖獎勸 ゆうえきしょうかん (いざない・たすけ・すすめ・はげます)して以て其の事をなさしむる。中庸に(舜帝の德を称えて)「惡を隱して善を ぐ」と、この章に近い義。

冥加:どうして美であって善ではないのか。美しきが正しく、醜いが正しくない、醜悪。自然は美しい。小人もまた自然にあり。対としては善、惡となるはずだけど。

凡知:以前武王と周公の音楽を比べたとき善と美が。

冥加:性格の悪い美人は善ではない?

凡知:孔子様が見られたら美ではない。音楽の中に、美の中に善を求める。

瑠璃:善きことは美しきこと。

凡知:禮(道)があっての美ではないか(禮樂)。

奏江:美は磨いていって美しくなるから、ここであえて美を使ったのは修養していくという意味もあるのかな。

凡知:わびさびのさびの美。

朝顔:この章は美しく感じる。君子の愛情だったり、その人の美点を引き出してあげる。

柴里:「成」は完成の意味で、誘い導き勧め励まし、完成させる。君子は他人の美事善事を成す。

冥加:本来美しさは自然の中にあって、人の中にある美しさを引き出すのが君子。ただ、小人も自然(というのは変かもしれないが)の中のうち。小人の役割みたいなもの、善悪を離れた精緻なものあったりするのかな。

北星:小人が一人もいなくなれば、君子もまたいないのかな。

佑弥:全部君子であれば、君子とは言わない。(区別が無い)

重只:全員君子になる事はあるのでしょうか?漠然とピラミッドのような印象をもっていましたが。

北星:宇宙の膨大な時間の中で進化ということを考えると理論上はあると思う。

瑠璃:私もあるかと思う。その時はピラミッドもなく、君子、小人という概念さえ無くなっている。

<この後、パラレルワールドから始まり、物理的な話、本質的なバランスなどに関する議論となりました。>


※次の顔淵第十二[一七]~[一九]は一連の章として捉え、議論は最後にまとめて致しました。

顔淵第十二 17

季康子問政於孔子。孔子對曰、政者正也。子帥以正、孰敢不正。

季康子 きこうし まつりごと を孔子に問う。 孔子對 こうしこた えて曰く、 せい せい なり。 子帥 しひき  いるに正を以てすれば、 たれ あえ ただ しからざらん。

参考

凡知:子路第十三[六]「其の身正しければ、 れい せずとも行われ、其の身正しからざれば、令すと いへど も從わず」と。
子路第十三[一三]「 いやし くも其の身を正しくせば、 まつりごと に従ふに おい て何か有らん。其の身を正すこと あた はずんば、人を正すを如何せん」と。
大學に「 堯舜 ぎょうしゅん 天下を ひき ゐるに仁を以てして、民之に從ひ、 桀紂 けつちゅう 天下を ひき ゐるに ぼう を以てして、民之に從ふ。その令する所その好む所に反して民従わず」と。 桀王 けつおう いん 紂王 ちゅうおう は暴君として有名。

予習感想

北星:この17章から19章までは、孔子様の 季康子 きこうし に対する皮肉という感じもしました。

冥加: 率先垂範 そっせんすいはん が儒教文化圏のリーダーのあり方か。


顔淵第十二 18

季康子患盜、問於孔子。孔子對曰、苟子之不欲、雖賞之不竊。

季康子 きこうし とう うれ えて、孔子に問う。孔子 こた えて曰く、 いやし くも にして不欲ならば、之を しょう すと いえど ぬす まず。

参考

凡知: 太宰純 だざいじゅん (江戸時代中期の儒学者、徂徠門下(1680―1747)曰く「(魯)公室を四分して季氏其の二を取る。季氏盗みを爲すこと大なり。民の盗みを爲すは もと より其の所なり」(民の盗みの由は、もとより季氏が爲したことにある)と。
先進第十一[一六]「季氏、周公より富めり。 しか るを求や之が爲に 聚斂 しゅうれん して之に 附益 ふえき す」とあり、季氏が魯公室の財物を無理に奪い、更に 苛税 かぜい をし、私腹を肥やした。

予習感想

冥加:自分の胸に聞いてみろかぁ。かなわん。全く正論と思いますが、諸国の君主、家臣たちに疎んじられるのも理解できる気がします。君主に国を治める徳がないと、国が乱れてしまうことは 必定 ひつじょう


顔淵第十二 19

季康子問政於孔子曰、如殺無道、以就有道、何如。孔子對曰、子爲政、焉用殺。子欲善而民善矣。君子之德風。小人之德草。草上之風必偃。

季康子、 まつりごと を孔子に問いて曰く、 無道 ぶどう ころ して、以て 有道 ゆうどう かば、 何如 いかん 。孔子 こた えて曰く、、政を すに、 いずく んぞ さつ を用いんや。 、善を ほっ すれば 民善 たみぜん ならん。君子の德はかぜなり。 小人 しょうじん の德は草なり。 草之 くさこれ に風を くわ うれば、必ず す。

参考

凡知:風草の喩えを言い、古来からの引用語。
書經君陳篇 しょきょうくんちんへん に「 なんじ これ 風、 下民 げみん これ 草」又、 説苑君道篇 ぜいえんくんどうへん に「上の下を する、 なお 風の草を なび かすごとし。東風なれば則ち なび きて 西 にし し、西風なれば則ち草靡きて ひがし す。風の由る所に在りて、草之が なびく を爲す」と。(「論語解義」簡野道明著)

予習感想

冥加:季康子は、もういいかげん、孔子様が何と仰るのか、想像力を働かしてもいい頃(時系列に並んでないけど、若輩者であろうけど)、人の話を聞かないというか、考えていない感じ。無道、悪人を殺すなら、真っ先に自身が殺されてしまうことに考えが及ばないのか。

麦秋:だいたい三桓子が君をないがしろにして 僭越 せんえつ してるのが無道。

議論17~19

瑠璃:季康子に対する皮肉。

北星:季康子は孔子様の御言葉を聞いても分からない。自分のことだと分かっていない。

柴里:季康子は、旅に出ていた孔子様を魯国に呼び戻した方。しかし、魯公の地位を盗み財も盗んだ。

冥加:孔子様から城壁を壊せと言われて三桓は反乱した。徳がなく、聞く気もなく、不徳をこれだけ言われたらどこの君主も臣も嫌だよね。

北星:彼らからは孔子様は煙たがられたかもしれない。孔子様にはお飾りとしていて欲しかったのではないか。

瑠璃:よっぽどひどい世の中だった。


顔淵第十二 20

子張問、士何如斯可謂之達矣。子曰、何哉、爾所謂達者。子張對曰、在邦必聞、在家必聞。子曰、是聞也。非達也。夫達者、質直而好義、察言而觀色、慮以下人。在邦必達、在家必達。夫聞也者、色取仁而行違。居之不疑。在邦必聞、在家必聞。

子張問う、士、 何如 いか なれば これ たつ う可 き。子曰く、何ぞや、 なんじ 所謂逹 いわゆるたつ なる者は。 子張 しちょう こた えて曰く、 くに りても必ず聞え、家に在りても必ず聞ゆ。子曰く、是れ ぶん なり。 たつ あら ず。夫れ逹なる者は、 質直 しつちょく にして義を好み、 げん を察して いろ おもんばか りて以て人に くだ る。邦に在りても必ず逹し、家に在りても必ず逹す。夫れ ぶん なる者は、 いろ 、仁を取りて おこない たが う。之に りて疑わず。邦に在りても必ず聞え、家に在りても必ず聞ゆ。

議論

凡知:【参考】仁齋曰く「夫れ 聞達 ぶんたつ べん 」、明らかにして、而る後に學者の志定る。聞とは うち きょ にして外に ほまれ あり。 じつ を勉めずして名を務む。達とは此に足りて而して彼に通ず。自らを中に修めて、而して人の知らんことを求めず。乃ち まこと いつわり の在る所にして、君子小人の分るる所以なり。 およ そ後世の 所謂 いわゆる 達とは、皆聞にして達に非ざるなり。學者宜しく つまびらか えらく ぶべし」と。
「色、仁を取りて おこない たが ふ」は學而第一[三]「 巧言令色 こうげんれいしょく は、 すく ないかな じんく 」に同義。 皇侃 おうがん 曰く「邦に在りとは諸侯に仕ふるを謂ひ、家に在りとは 卿大夫 けいたいふ に仕ふるを謂ふなり」と。(「論語解義」簡野道明著)

冥加:達士と聞士に雲泥の差ですか、味わい深い。

麦秋:道を学ぶ者がこのような質問をしてはまずいですよね。

柴里:ここは達士と聞士の違いを述べている。
(異論なし。)

以上