東洋哲学研究会

2015.09.06

論語 公治長第五 25・26

論語勉強会議事録

2015年09月06日(日)14:30~17:30

開催場所:春秋館

議事内容:本日は、公治長第五[二五][二六]を学びました。

テキスト「論語の講義」諸橋轍次


論語 公冶長第五 25

子曰、巧言・令色・足恭、左丘明恥之。丘亦恥之。匿怨而友其人、左丘明恥之。丘亦恥之。

子曰く、 巧言 こうげん 令色 れいしょく 足恭 すうきょう なるは、 左丘明 さきゅうめい 之を ず。 きゅう も亦之を恥ず。 うらみ かく して ひと とも とするは、左正明之を恥ず。丘も亦之を恥ず。

議論

冥加:大事なところはしっかりやって、そのままの所はそのまま進める事、とあった。ここはあっさりでいいんじゃない?

北星:一つ気になったところは、人に恨みを持っていた場合、その人とどのように付き合うと良いのかということ。

麦秋:あなたここは駄目ですよというべき。

柴里:恨みがある事は自分の我欲・拘りがあるからで、(恥ずるだけでなくさらに一歩進んで)それをなくさないとダメということだと思います。

北星:観法などが出来なければ、現実には恨みを無くすのは難しいのではないか?

凡知:付き合わなくてよいならそれでよいが、付き合いはしても友になることはない。

北星:恨みを持っていたら、一切付き合わない方が良いのか?

重只:嫌いなのに、友達のふりをするのが良くないと言っているのでは?

凡知:恨んでいる相手でも善なる方へと導いて行く、いって欲しいと思うこともある。恨む自分も悪いが、たとえ相手が悪人でもその人の本性が見え隠れするのが分かれば、自信は無いがやってあげたい。

柴里:そういう段階になると恨みと言わないのでは?

凡知:陥れられたとか有っても、そいつの良いところを発見したら付き合ってもいいなと。その人の持っている個性で良いところを見つけられればいい。

冥加:ここは、時代背景を考えると、自分の親兄弟を殺されたとかの深い怨み、朋友の信、信がもとになるから、信がないのに友達というのは変でしょうというという話では。

佑弥:心を偽って相手と付き合うのは失礼ではないか。

瑠璃:誠がない。欲を優先している。

佑弥:裏表がある人。

冥加:凡知さんは隠さないでしょ。相手が間違っていたら絶対に指摘する。

佑弥:その場合は恨んでいない。凡知さんの場合は、その人を救いたい思いであり、それは既に恨みではない。「恨みを隠して」というこの論語の内容と違うと思う。

麦秋:孔子様は巧言令色がよっぽどお嫌いなのだ、論語の中に2回もでてくる。

凡知: 按配 あんばい が下手。

麦秋:孔子様は恨む人は避けていた?

凡知:孔子様は清だから、相手にされないし、遠ざけていた。

重只:孔子様はそもそも恨んでいたのでしょうか?

瑠璃:現実的にこれでは出世しない。

正志:内容とは関係無いのですが、「左丘明はこう言った、私もそう思う。左丘明はこう言った、私もそう思う」と言う話しのもつていき方に、孔子様の静かな確たる個性のようなものを私は感じました。

北星:文面から、左丘明は孔子様に近い人だと感じる。

瑠璃:先輩にあたる。

凡知:孔子様が尊敬できる人。

麦秋:孔子様は自分のことを きゅう といっている。

重只:事なかれ主義で、というのとは違うのでしょうか。

北星:心に偽りがあるのが駄目ということ。

正志:嘘は駄目ということ。

麦秋:我々はどうしたら良いのか。

重只:いつわらず、そのままだす?

冥加:自分が変わって、相手が変わる。

瑠璃:恨んでいる人間が、利益をもたらしてくれているのなら、礼をつくさなければ。

重只:礼は尽くさなければならないですよね。どんな恨みがあったとしても。

冥加:信がないと朋友とはよばない。

佑弥:孔子様に対し表向き良い顔をして裏で批判して、孔子様が悲しい思いをされていたのではないか。

筑波:孔子様はこういった場合具体的にどうされていたのでしょうか?

麦秋・冥加:会わなかったり、居留守を使ったりされていた。

北星:孔子様も恨むという事はあったのか?

瑠璃:そういった記載はないようです。

北星:ご自分の弟子が殺された場合でも恨むという心はおきないのだろうか?恨みに心とらわれるということはないと思うが。

佑弥:孔子様は、仏頂面であっても誠あれば良いとされたのではないか。

瑠璃:喜怒哀楽は普通にお有りになったと思う。しかしその感情を超えられていたのでは。

重只:その場合は、おこって憤られたとおもう。

凡知:恨みがおありになったかどうか?瞬間的にはあったのでは?ひきずらなかったのではないか。

佑弥:怒りであったのでは?

冥加:はっきりしているのは、孔子様はその人を友としなかった。

論語 公冶長第五 26

顏淵・季路侍。子曰、盍各言爾志。子路曰、願車馬衣輕裘、與朋友共、敝之而無憾。顏淵曰、願無伐善、無施勞。子路曰、願聞子之志。子曰、老者安之、朋友信之、少者懷之。 

顔淵 がんえん 季路 きろ す。子曰く、 なん おのおの なんじ こころざし を言わざる。子路曰く、願わくは 車馬衣軽装輕裘 しゃばいけいきゅう 、朋友と共にし、之を やぶ りて うら むこと無からん。顔淵曰く、願わくは善に ほこ ること無く、勞を ほどこ すこと無からん。子路曰く、願わくは の志を聞かん。子曰く、老者は之を安んぜしめ、朋友は之を信ぜしめ、少者は之を なつ かしめん。

議論

冥加:ここは、孟子様の父子に有っては親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信からという五倫に繋がって行ったのではないか。

柴里:子路の言葉には、軽い印象を受けた。幼い。

重只:目指していたのだから、実際は友が自分のものをボロボロにしてしまったら怒っていたのではないでしょうか。

麦秋:子路は自分のものが友が使ってボロボロにしても惜しくないと物質的なことをいい、顔回は個人的な精神的なことをいい、孔子様は自分以外の老人、朋友、歳若い人達のことを言われた。

瑠璃:子路と顔回は自分という枠を超えていないが、孔子様は広く社会へのご愛情を示され、導く方、導かれる者の志の相違を思うと解釈した。

凡知:子路は、朋友にして信、義に心が向き、顔回は自分がどうあるべきかの修行に専念した。

瑠璃:子路の性格がよくでている。

北星:顔回の言葉も顔回らしさを感じる。

瑠璃:二大キャストなので、この比較が面白いと思った。

正志:善に ほこ ることなく、という「伐」という未字が凄いと思う。征伐のばつ。一体どういうほこり方なんだろう。

重只:戦っても善を行なうと言う気持ちが込められている。

凡知:自分との闘い、自分を如何に高めていくか。

冥加:克己心?

凡知:そう、克己心。

冥加:佑弥さんは(十大弟子の)誰に似ているとしたの?

佑弥:冉求。自分を限り、できない言い訳をしていた。それがいけない。それというのも求道心が足りないからだ。求道心が燃えていれば己の心を飾らず、素朴な心となり、突き進んで行くことができると孔子様が仰られています。

<続けて孔子様の弟子についての話になりました。>

筑波:子路が孔子様の志をお訊ねしたところが凄いと思う。子路がお訊ねしなければ、孔子様の志は載らなかったかもしれない。

一同:それが子路なのでは。確か奏江さんが自分に似ていると選んだのは子路だったのでは?

北星:私には少し間抜けなところがあるという意味で子路を選んだ。

佑弥:子路は間抜けではないと思う。

瑠璃:間抜けというより、純粋なのでは?

麦秋:自分はどうですかと聞けてしまう子貢はすごい。

瑠璃:そういうことも顔回が書き残したのかな? 竹簡から紙になって広まったのかな?

凡知:千年後になって出版。

冥加:派閥があってそれぞれにまとめたものではないか。

重只:論語は言葉が美しい。

北星:韻を踏んでいたりと詩などの素養があったから文章が美しいのではと思う。

瑠璃:読み手がいることを意識して書いている。

凡知:中国は昔からそうだったのではないか。孔子様は「春秋」に手を入れられた。

麦秋:どうして春秋を書いたか?春秋を書いたのは乱臣・ 賊子 ぞくし には 筆誅 ひっちゅう (悪事を書いて責める)を加え、善人には善行をたたえて、人として守るべき道を明らかにし、また、天下後世に道を示した。(「論語と孔子の辞典」江連 隆著_大修館書店 46頁)

瑠璃:諸橋轍次氏と私の解釈とは違っていて、顔回や子路と同じように孔子様もご自身の枠内での志を語られたのではなく、そういう社会を作りたい、と訳した。この解説書だと小さく捉えている。

冥加:孔子様は社会を変えたいお方だから瑠璃さんの想いのほうが近いのでは。

凡知:瑠璃さんの言われるように、老者、朋友、少者は天下国家の象徴を表し、徳治政治を実現させ、天下国家を安んじせしむという 高邁 こうまい な志を持っていたが、その志は達せられず、後世に受け継がれんことを欲したまえる。

瑠璃:この章では顔回と子路が同時に登場しており、このお二人には十哲の中で陰と陽、靜と動の両極のような感じを受けます。二極はもともと一から生じたことであり、その根本は同じ、一つの志であります。君子として仁の道を、聖への道を歩む。共にタイプは異なるものの、行動のあり方は正反対であるものの、その深い思いは共に通じております。顔回も子路もその志は個人の枠を超えておらず、孔子様のお志は広く社会の人々へのお愛情を示されており、ここに導く方、導かれる者との違いを知ることができます。顔回、子路は自分自身だけが小さな舟に乗って一人辿り着く上座部仏教、孔子様は大きな船で大勢を導かれる大乗仏教、そのような感がありました。教義は違っていても、指導される方のご愛情の深さは、計り知れないことです。

以上