東洋哲学研究会
2015.08.23
論語 里仁第四5
論語勉強会議事録
2015年8月23日(日)17:20~18:40
開催場所:春秋館
議事内容:本日は、里仁第四[5]を学びました。
テキスト「論語の講義」諸橋轍次
論語 里仁第四 5
子曰、富與貴、是人之所欲也。不以其道、得之不處也。貧與賤、是人之所惡也。不以其道、得之不去也。君子去仁、惡乎成名。君子無終食之閒違仁。造次必於是、顚沛必於是。
議論
筑波:『論語』は私の専門の西洋哲学の観点とはずいぶん違うのですが、 諸橋さんの説明によると、「人生の究極の目的は仁道」とあり、それに従う在り方が示されていると単純に思う。西洋哲学では人間の在り方をレベルや次元に分ける考え方があります。自分があるレベルだと思っていても、そこで別の「気晴らし」が必要になると、そのレベルにはいないと解釈されています。
例えば、このレベルだから、物質的なレベルをまず満足させましょうとかになってきます。楽観主義だと思いますが、人間はものをよく考えていれば、おのずと正しい道にいくというのはわりと哲学の中にはあるかなと思います。
佑弥:西洋哲学的な考えだと、レベルで区別して、やり方があるということ?仁者は、仁者である事が楽ということ。
筑波:楽の解釈による?
佑弥:仁者は空気を吸うように仁が楽ということ?逆に仁の中にいないと苦しい。
筑波:身に付いているという事だと思う。そうあるべきだと思いながら、そうしたくないと感じることでも、それを繰り返し行い、習慣化することで自分のものになり、自分の性格となり、自分がそのようなあり方になれると捉えている哲学者もいます。仁者は仁道に則っているのが「楽」あるいは自然なんだと思う。でも例えば私のようなレベルでは、「気晴らし」が必要になる。
奏江:自分にとって今はやりたくないのだが、これが自分の進むべき道だという志があるからこそそれが自然に自分の身についていく。
佑弥:仁になっていないと気持ちが悪いということ。
筑波:だから、食事している間もそうなるんだと思います。
凡知:その人のレベルによる。ある人のレベルでは仁であっても、別の人にとっては不仁。実践は、その人、そのレベルで異なる。
奏江:やりたくないと言ってはいるのだが、その根本にあるのは本当はやりたくないというわけではない。
耕大:肉体がある以上、肉体上の気晴らしを言っているのではないの?
筑波:そうではなく、たぶん別の要因で、私などは怠惰とか…。
奏江:やりたくないという言葉が気になって。でも本当はやりたくないわけではないんですよね。
佑弥:現実的に努力しないとできないという部分は肉体を持っている以上ある。心が仁の方に向いているというのと、肉体があり、因縁もあり、そうならざるおえない部分は分けて考える。肉体をもっているから、きばらし的な休養等含み、最低限必要なものがある。度を越さなければ良いと思う。
冥加:そもそも論だと、素直に読むと、「君子たらしめるものが仁ですよ」といっていると思う。
遠雷:君子は365日24時間、いついかなる時でも、いかなる状況でも、「仁」を離れることはないということが語られていると思う。
凡知:君子はそうあるべきと述べているが、それはきれいごとであって、実際に出来ないと思う。君子でも100%は出来ないと思う。
冥加:仏教的な言い回しで申し訳ないが、仁は真如である。すでに悟ってあるものと思う。君子や仁者はそれをすでに得ている。凡人はそれに到達できない。仁者は、
佑弥:この論語の文章に書かれてある仁とは、仏教的な「真如」とは違うと思う。
瑠璃:呼吸をするように、意識をしなくても当たり前のように、自然に仁にある人のなかに根付いている。仁の道にある人は、これが仁であるかどうかなどさえも疑問にならないのではないか。それが仁者にとって自然なことだから。
佑弥:そう。空気と同じ。
遠雷:「仁」とは行為ではなく、意識だと思う。だから、寝ている時でも、無意識の時でも、「仁」を離れることはない。
淳寛:意識しようがしまいが仁が根づいているとはどのような状態なのか?
冥加:凡夫はこれが仁、あれが仁と思う(プロセスがある)。君子は、仁がその人をドライブしている。裕福な生活をしながらも執着がない。自分の生活が貧しくとも執着がない。常に慈愛の気持ちとかしか意識に及ばない。だから、お金をもって裕福な暮らしをしていても、いざとなったらそれを捨てていくとか、とても貧乏でも、それを受け入れて、貧しくてもそのままで全然、気持ちがワサワサしないと思う。
遠雷:為政第二に、孔子様が「七十にして心の欲する所に従いて、矩を踰こえず。」とあるが、この「矩」で律せられているのだと思う。「矩」とは、徳、宇宙の理で、それを決して超えることはない。このことに繋がっていると思う。
降人:仁は真如であると言ってしまうと、あまりにも実際からかけ離れてしまい、到達できない部分になってしまい、ここから学ぶ上での取っ掛かりが無くなってしまうけれども、実際の手立てを示していないというが、ここでは貧賤と富貴ということを例にとって示していると思う。
佑弥:人々と欲する所と、にくむ所が仁者は違うのではないか?仁者は富と貴きそのものが目的や一番ではない。貧しき賎しきは忌むものではないのかもしれない。
帆士:でも、これはかなり具体的に言っていると思うんですけど。それを読みとっていくべきで、究極のことは(理解はしていないが)みなわかっていると思うんですよ。
淳寛:究極の事ではなく、仁者はこうではなんだよ、と言っている。
冥加:仁者ではない例としてあげているのではないか。否定命題から入っている。
佑弥:最初の2行、具体的に考える糸口は仰っている。
奏江:人は人気が出てくると傲慢になる。物質的に富んで豊かになると、欲が出てきて、もっと欲しいという気もちが出てきたりする。病気になったり、慌てたり、危機的な状況になったり、さまざまな事が人生に起こってくる。そのような状況においても自分が仁を求めていけるか、という戦いになる。どのような場合でも自分が仁を求めていくという強い意志があれば仁を求めていけるのではないか。そして仁を求めていかなければならない。
降人:どんな状態でも仁を求めるという事を言っている。2つの例をここではあげている。この二つの事柄の逆の事を考えてみるとよいかもしれない。
冥加:極端な話、仁を求めている段階すら仁者でないかもしれない。
淳寛:それは老子的な無為自然の世界。論語はもう少し現実的なもの。
謙二:実体験の中で、出張先の大浴場でとげが足にささりあわてて抜いてそれを捨ててしまった。仁者ならそれを他の方の事を思って持って帰ると後から反省した。この句を詠んで自分は仁者ではないと思える。そのような意味でも論語勉強を通じ、自らを思い返し正してもらえることに感謝。
冥加:自分が仁者でないことを確認できる。
帆士:そうだけど、なろうとしなければなれない。
淳寛:論語の世界とはそういうものだと思う。
梅花:いわゆる究極の目的として仁道に向かっていけばよいという事ですよね。
降人:その次の章にも、仁に近付く、というのは書いてあります。
冥加:孔子様は、弟子からこれが仁ですかと問われ、あれは優れていることだけど、仁かは知らないとよくお答えになっている。
瑠璃:孔子様はこれが仁とは仰っていない。
耕大:この命題は、仁の側面を孔子様が示してくださっている。
降人:命題ということで言えば、努力をして得たものはどうか。たとえば「富貴を得られるような善いことをして富貴を得る。」という状況であれば仁に適うと考え、富貴の地位を去らないという風に考えてもよいか。
瑠璃:そこに至るまでの過程が大事であり、正しい行ないの努力の結果として、富や貴を得るのは、いいではないか。正しい行ないで、それでも貧や出世できなくても、胸をはっていればよいと仰っている。
麦秋:仁に違っていなければ富でも貧でもどちらでもよい。
瑠璃:富とか貧乏とか、例として解り易いじゃない。実際に子貢はすごく富を得ている。それで出世もしている。それでいいよ、でもそのやり方は正しい道を違わないように、ということ。
冥加:(降人さんの意見に対して、富貴を去れないのなら)でもやりかたも間違っていたと思うよ。そのプロセスにおいても欲で動いていたと思うよ。お金を稼いでも構わないが、それに執着して必要な時に手放せなければ仁ではない。
謙二:お金の稼ぎ方、プロセスも重要では。
帆士:皆さんから伺いたいのは、自分が仁にかなっているかどうかというのって本当はそうでないかもしれないじゃないですか。それをどう見極めていくかというのを聞きたい。気が付かない場合が多い。
瑠璃:それは自分で考えること。
淳寛:その行為が、どのような心から出たのかで、ある程度自分で判断できる。その行為が惻隠の心など、四端の心から出たなら善(仁)だと思う。
奏江:維摩會で学んでいる自観法が良いと思う。
麦秋:孔子様流に言えば日に三省しなければならない 。
冥加:三省、それですよね。その為には、明師の存在が大事。かの時には孔子様がいらっしゃり、我々には維摩會での学びがある。よく思惟してから質問すればよい。
奏江:傲慢になったり人を不幸にしたりすると人生には必ず、しっぺ返しがくる。そのような時に気付くことができればよいのだが。我々は幸せなことにこうして学び、気付かせていただくことができる。日々の座禅・瞑想、自観法で気付くように心がけていく。仲間にも気付いたら指摘してもらうことができる。
重只:自分だけだと、これが、あの時のしっぺ返しか、とはなかなか気が付けないですよね。
梅花:できればしっぺ返しが来る前に気が付きたいですよね。
桃太:子貢のレベルになると(孔子一団を支えたりして)富を得ても傲慢になる事は無いが、自分がみじめな立場でも相手の良いところを認められるのはよい所、仁の部分と思う。
冥加:たぶん皆の中には必ず仁はある。気づいていないだけ。
佑弥:富と貴きを欲する人が仁者であるとは仰っていない。
遠雷:人間は吉凶禍福にふりまわされているけど、君子は吉凶禍福に喜怒哀楽を左右されるのではなく、「正道」、ただそれだけを基準として歩まれるということだと思う。
佑弥:仁者にとっては人々の欲する富貴、人々の忌む貧賎の見え方が違ってくると思う。
凡知:仁者、不仁者では富貴貧賤のとらえ方が違う。きれいごとではなく、現世で生きていて、富貴を欲し、貧賤を厭う者だけれども、聖賢の道を目指すのであれば、そのように生きなさいよと言っている。仁に気持ちを向けるべきだと。
重只:私もそう思いました。
佑弥:仁を一番に!
凡知:現実として大変だと言うのがあって。
梅花:葛藤のなかから仁が生まれてくる?
凡知:我々が生きている事は葛藤がある事。人間として辛い、苦しいというのがあるから。言葉だけとらえたら薄っぺらになる。
奏江:見え方が違うというのはどういうこと? 一般の人なら貴いと思うようなことがそのようには見えないということ?
重只:たとえばどういう事でしょうか?
佑弥:着飾り地位もあり高貴と世間で言われる人でも、仁者は、その人の本質を見て、貴いと思わなかったりする等。立脚点が違う。仁とは、今の私には「わからない世界」だと思います。
帆士:さっきと言っていることと同じことを言っている?
佑弥:(私は)いろんな言葉を変えて言っているだけで、同じことを言っている。
淳寛:孔子様も社会的地位を求めていた方だが、それは世の中の役に立つためで、求める事(目的や過程)に恥じる事がなければよいと言っているのではないか
遠雷:貧富については、学而第一に、子貢が、「貧しくして諂うこと無く、富みて驕ること無きは、何如ん。」と質問したら、「それはいいね。だけど、未だ貧しくして楽しみ、富みて礼を好む者に若かざるなり」と答えられている。貧富に左右されないことが語られている。貧富という価値観にとらわれずに、徳をあなたの基準にしていきなさいということじゃないかと思う。
冥加:上を見てピンとこないなら、地獄の亡者、餓鬼、畜生は、富貴貧賤に接した時、凡夫の人間よりずっとおぞましい事をするでしょ。
耕大:自分にとってすごく厳しいと思う、孔子様のお言葉は。自分を問い詰めていくとそうでない事がいっぱいある。ただ、私たちにとって道を求める事こそが富であり貴きであり、求めないことが貧賤であるということだと思う。
奏江:仁を求めている過程において、富んだり貴くなったり、貧しくなったり卑しくなったり、造次になったり、顚沛になったりしているだけで。いろいろな事があるだけで、何か起こったとしても仁を求める気持ちに変わりはない。
瑠璃:正しい事をする努力、ただお金を稼ぐこと、出世すること、それ自体が目的ではなく、生活したり、企業や社会のためを目的とする。仁者というのはそのプロセスでも仁でしかありえないと思う。
降人:世の中ごちゃごちゃといろいろな状況があるから、気持ちはその方向に向かっていてもちょっとなにかあるととたんに仁から離れてしまう。自分の生活上のことですが、物を作って出していて、その時に、まだ作りとしては不十分だと思っても納期に間に合わせるとか数を確保することとかが入ってくると自分がまだ満足いかないものでも出してしまうようなことがあって、それがいつまでも気になってちくちくと気持ちの上での刺のようになることがあります。
重只:我々のレベルで、じゃあ少しでもこうしよう、とかああしよう、とか議論したいと思ったんですけど。
冥加:君子を目指すなら、それは
奏江:人のことを自分のことのように考えれば。
淳寛:あとで、あのこと(行為)を恥じるかどうかだと思うんです。
佑弥:富や貴きとか、移り変わってゆくものを求めて、虚しいだけではないか。
風鈴:先程の降人さんの話なのですが、貴賤貧富の差、どんな状況であっても仁道に違うことがないのが、君子である。とここでは謂っていると思うんですが、私達にはとても大変なことだと思うんです。ただ熱心に仁を求めて仁を心がけることで一つ一つやって行くしかないと思います。
淳寛:自分が造次顛沛ときは自分を優先してしまうときがあります。どうして他人のことを思うことができなかったなとか思うことがあります。それが恥の心だと思うんです。
冥加:気が付かない事には改善ができないから、だから自観法をして気づくようにする。気が付いていないと思う事が大切ではないか。
梅花:試行錯誤して仁に近づいて行く。
降人:期限に追われているような場合、その中でやはり間に合わせ的な動きになってしまう。仁に違う事のないようにと意識すると常に葛藤が生じる。日々は常に葛藤があって。
瑠璃:そういう時は不動心が求められている気がする。
凡知:不動心ではなく、やるしかないのなら、必死にやってあとは天に任す。
佑弥:今の凡知さんのは、品質は落とさず、やるという事ですよね。こういう結果で間に合わなかったということを言うということですよね。
凡知:やるしかないということ。迷うことではない。やってから考えればいい。結果は後でついてくる。考えるのがおかしい。
佑弥:それで間に合わなかったらということを考え、先にできる分だけを受ける。
降人:ちょっと話がずれてしまっているような気がするんですが、こうした状況に置かれたときの具体的な方法論や心構えはその通りだと思うし、分かるんですが、言いたかったのは仁に適うのかと考えたときに、常に自分がさらされているなということなんですね。
梅花:そういうことが現代を生きるという事。
冥加:正直に伝える事が大事。
佑弥:そこで欲が起きていないか、欲で、できない分も受けてしまっていないか?
遠雷:正直に、B級品ですよといって納品するのはどうですか?
降人:そう、それをやっています。これは出来が悪いですがと断って出していますが、ガラス玉のとげに関してはそれでもまだ気になっている部分が残ったまま。
佑弥:そのままにせず、きちんと上に伝える等して改善するようにする。
凡知:常に満足は無い。
蒼生:仁に近づいて行けば行く程、その厳しさというか(自分に課す)要求度がより増して行くのでしょうね。
淳寛:その気持ちがあるうちは。
降人:そこに行ってしまう弱さがありますね。
冥加:そういうときは維摩會の十徳目を思い出して、愚直たれで正直にいうということですよね。
佑弥:そのときに欲がでなかったか、というのを判断しないといけない。
重只:われわれは、出来る出来ないの判断をするのは自分じゃないですか。どこまでを欲とするのかは、自分の厳しさですよね。
遠雷:(佑弥さんが言いたいのは)、ものごとを判断するとき、自分の意識に、欲があったのではないかを問うということですよね。
瑠璃:降人さんにとっては、沢山入れてあげたいという、思いやりの心があったのではないですか?
降人:そうですね。それもあるかもしれませんが、かなり気を使ってやってるつもりでもまだ気になるところがあって、ガラスの棘が出ているところは無かったかとか、まさに気持ちのうえで刺みたいにちくちくと気持ちが痛むときがあります。
凡知:職人は自分の仕事を100%の仕事だとは思わない、満足しない。それは仁に適うと思う。
佑弥:同じことを繰り返すようだと違うかなと思う。
降人:これではだめだと思ってもそちらにいってしまう自分の弱さがある。それをどうしたらいいかなと思う。
奏江:そのようなことを、さっき私は戦いと言っていました。こうすると楽できるとか、今までの習慣に流れてしまうといった、そうしたこととの戦いということなのです。また、さっき淳寛さんがお話されていた、やってしまった行為を恥と思えるかどうか、そしてそれを改善できるか、常に自分の行為を振り返る気持ちを持ち続けられるかどうか、自分の汚さとの戦いというか。
冥加:これでいいやと思ったら進歩しないんだよね。
遠雷:これでいいやと思っても必ず天罰がある。気が付かない人でも気づかされるようになっている。
瑠璃:それを天罰だとわかるかどうか。わからないと永遠にわからない。
帆士:いつもいつも、気づく機会を与えて頂いている。そしていつも毎日が試験であるということだと思うんですよね。
重只:でも因縁、天罰だけに頼っていたら、極端な話、死んでしまって反省できない場合もある。法則は法則であって、それを学びとれる知性が我々にあるかという話だと思います。
冥加:死んだらもっとえらいことになって、反省三昧。
帆士:そういうことをあきらめずにやるというのも求められている。そこから磨いていく。
冥加:法則性であって、心根とは別に考えないといけないですよね。
遠雷:いや、まったく同じですよ。「仁」というのは、宇宙の理をなしている五常の一つで、その根本の徳は宇宙にあり、私たちにある。
冥加:(広義の法則性、広義の仁)究極ではそうかもしれないが、重只さんは、狭義の法則性と仁について語っているのではないか。
凪沙:今でてきた果が何を因として出てきたか、わからないからということですか。
奏江:自分に嫌なことが起きた時に、これが何が原因で起こったのか、すぐに気付ける人はなかなかいないのではないか、と思うんですよね。ですが、このことなのかな、と気付かせていただけることもあるので、何か来た時にキャッチできる心を持つことができたらいいなと思います。
帆士:ところで遠雷さん、どうしてこの章を選んだんですか?
遠雷:この章を選んだ理由は、この章を通して、君子が常住座臥、いついかなる時いかなる状況においても仁を貫いている姿が読みとれます。また吉凶禍福に心がとらわれることなく、一なる道を貫くことが語られています。道を貫くとはどういうことなのか、仁とは何か、仁義禮智の根本となる信とはなにか御教えを振り返り、我が身を省みながら、議論出来ればと思いました。
冥加:この章は、君子たらしめるのは仁ということで、すごくシンプルだと思うんですよね。
遠雷:ようやく我々は「仁」について語られている「里仁第四」までにたどりついた。それまでは道とは何か、徳とは何か、五常とは何かを話しあっていた。「論語」では「禮」を学ぶことが第一だと思う。「禮」を学び、「義」を学び、その次に「仁」となる。なかなか「仁」にたどり着かなかった。本当に「仁」を語ることは難しい。そこには達していないと感じている。しかし、同時に、我々のなかにすでに「道」があるという側面もある。
冥加:ここにはそこまでのことは書いていないよね。
以上