東洋哲学研究会

2015.08.09

論語 公冶長第五 22 23

論語勉強会議事録

2015年8月9日(日)18:00~20:30

開催場所:春秋館

議事内容:本日は、公冶長第五[二二]、[二三]を学びました。

テキスト「論語の講義」諸橋轍次


論語 公冶長第五 22

子在陳。曰、歸與歸與。吾黨之小子、狂簡。斐然成章、不知所以裁之。

ちんり。曰く、かえらんか、歸らんか。とう小子しょうし狂簡きょうかんなり。斐然ひぜんとしてしょうすも、これさいする所以ゆえんらず。

<議論>

瑠璃:孔子様が魯に帰った事で、論語が後世に残ったという大事な章。

冥加:この発言から帰国されたのが5年後。

瑠璃:冉求が受け入れ体制が整ったので魯に帰ってほしいと言った。

重只:あらためて孔子様の人生を振り返ってみました。魯の国で56歳までずっと従事され、大司寇(司法警察長官)まで出世された。その後亡命され、56~68歳まで諸国をめぐられた。魯→衛→曹→宋→鄭→陳→蔡→楚→衛→魯の順で諸国を回った。陳の国にいらっしゃるときの発言なので、この発言をされた時に、自ら世の中を変えて行く事をあきらめ、故郷の魯で後進を育てようと思われたのではないか。

冥加:5年掛かったのは長い、どういうことか?

北星:もともとが、改革に失敗しての亡命のようなかたちだったことが関係していそう。「帰らんか、帰らんか」という言に感情を感じる。

冥加:二度繰り返すのが、なにか郷愁を感じる。

佑弥:同じです。ノスタルジーのような情を感じる。

瑠璃:ここにはもう居たくない。ここでの志が叶わなかったの心情。

冥加:矩を超えたのは帰る前?

重只:魯に帰られたのが69才だから魯に帰ってからです。帰った時に息子の鯉が亡くなっており、その2年後に顔回が亡くなっています。魯ではとても出世された方だったのですが。

瑠璃:ただ、本懐は遂げていない。

冥加:君主に仕えていたら、論語は世に出てなかった。

佑弥:狂簡という意味は漢和辞典だと「進取の大志を持ちながら、(行ないはそれに伴わず)疎略なもの」とある。

柴里:志がおおきいで、行ないが簡。簡単な簡。

北星:狂簡の意は「狂狷きょうけん」と同じとある。「狂」は志が大であること、「狷」は性質がかたよっていること。かたいじ。がんこ、へそまがり等。

瑠璃:志はあるけれど、完成に至らない。

柴里:論語でしか使われない言葉かも。

凡知:志大にして、日常の行事には簡略。

柴里:これはやはり人生の終わりに近くなってきて何を大事かを考えたとき、なすべき事を残そう、伝えていこうと考えたのだと思います。自分でも体験済みですが、講演だけだと残らない。総説や論文などの著作が評価されるのに重要です。著作になると、多くの人の目に触れるので影響力があります。そういう意味で、孔子様のお気持ちを身近に感じました。ただの後ろ向きの気持ちでなく、前向きな決意が感じられました。

瑠璃:自分の故郷で道を伝えたかった。

北星:帰ろう、帰ろう、もう撤収・・・というような感じ。

冥加:不本意な中で、「もういい、もういい」とおっしゃったのでは?

瑠璃:前向きな気持ちと不本意両方ある。

冥加:弟子を指導したいという気持ちだけなら、1度しか「帰らんか」と言わない。

佑弥:陳にあり、道がないと考えた。年齢を考え、国を良くするためにはどうすべきか考え、故郷に思いをはせ、教育だと思われた。

冥加:陳に有り、という事は「陳に道が無い」ことを言いたいのではないか。(表れているものを隠し、隠れているものを表す。)

佑弥:道があれば孔子様(論語)は出現されなかった。道が無かったから孔子様が出現された。

重只:人間的な憶いとして、56年間いらした魯の国が孔子様にとってふる里であり、ご自分の故郷に帰り、後進を育てたいと思われたのだと思います。

北星:年齢的なものが一番大きいと思う。

奏江:ご自分のお教えを広めるために各地に行ったが、仕官に至らなかった。政治との関わりにおいては、ご自分のやるべきことは手を尽くされたのではないだろうか。また、郷里の若者たちもいくら志が高くても教育が無ければ育っていかないと改めて思った。そういう意味で孔子様の存在は大きい。

重只:私もそう思いました。この訓示は孔子様が教育の大切さを仰った内容と思います。

奏江:孔子様は諦観で戻られたのか?

北星:そう、私は諦めといったものがあったと思います。

奏江:仁はこの時代の政治においては通じなかった。郷里の若者たちは孔子様の生き様をみて志を持つようになったのか?

北星:魯の国には孔子教団のようなものがあった。

冥加:孔子様の若い門人たちには、輝ける潜在的才能があった。だから錦。

奏江:若者たちは孔子様の教団を守っていた。そして孔子様の教えを必要としていたのですね。

佑弥:凡知さんは68才ですが、個人差はあると思いますが、(同じような立場であれば)どのように考えますか?(どのような心境となりますか?)

凡知:確かに後進を育てたいと思う。当時の68才は今日では相当の年です。

佑弥:故郷に残っている弟子が、孔子様のご高齢を心配に思われた。またお教えを乞いたい、お教えを残したいという思いがあった。そのような孔子様に対する愛情を感じる。また、終の住処をと、周りの思いやりもあるのでは。弟子たちの情熱が孔子様に伝わった。

奏江:冉求からリクエストなければ旅を続けられたか?

柴里:史記から引用(司馬遷_史記_世家下_小竹文夫・小竹武夫訳_ちくま学芸文庫)、孔子様が魯にもどることになったいきさつを紹介します。100p魯の哀公三年(孔子は六十歳)、(魯の)季桓子が病にかかった。(中略)「かつてこの国は興隆しようとしていたのに、わたしが孔子の意にそわなかったため、ついに興隆を見なかった」と言い、嗣子ししの康子をかえりみて、「もしわたしが死んだら、おまえはかならず魯の宰相となろうが、そのときは必ず仲尼ちゅうじ(孔子様のこと)を招くがよい」と言った。数日後、桓子が没し、康子が代わって立った。葬儀をすませ、仲尼を招こうとすると、公之魚こうしぎょが言った。「むかしわが先君は、あのかたをお用いになりましたが、中途でおやめになり、ついに諸侯の物笑いとなりました。(中略)」康子が、「では誰を招けばよいと申すのか」と問うと、「かならず冉求ぜんきゅう ( 孔子の弟子 )をお招きになりますように」と言った。101p子貢は孔子に帰心のあることを知ると、冉求を送り出すとき、「もし君が魯に用いられることになったら、孔子を招いて欲しい」と言った。

凡知:歸らんか歸らんかと重ねて言うのは、道の行なわれていないのを歎き、故郷に帰り学を成就し、道を後世に伝えんとする孔子様の切なる想いが感じられる。

柴里:陳に滞在したときに、たえず(がいかん)を受けていた。史記世家下からの引用94p。孔子は三年の間、陳に滞在した。たまたま晋・楚が強勢を争って、かわるがわる陳を伐ち、また呉も陳を侵したため、(以下略)。

冥加:国に道無ければ、「清」の人は移動していく。

奏江:陳はどのようになったの?

冥加:楚によって479年に滅ばされた。

佑弥:孔子様の(本当の)思想は、六経の文章ではなく、実際の言動に現れておられる。傍にいた弟子が記録していたから、帰らなくとも後世には残ったとも考えられる。

柴里:六経のうち、「春秋」は魯の歴史を孔子様がまとめられ、後に春秋左氏伝のような解説書が書かれた。また、礼記は孔子から起こったものと言えようと、史記にある。三千余篇あった詩が孔子様の時に重複を捨てて礼儀に施すことのできるものだけを取って三百五編にされた。(他の人がまとめたものと、孔子様自らがまとめられたものとは重みが違う)

瑠璃:ここで孔子様が帰らなかったら儒教はなかった。

冥加:昔から今に至るまで、六経より論語のほうがはるかに読まれているよね。

瑠璃:書物だけではなかなか伝えられるものではなかった。孔子様直々の御教えが必要だった。直接お伺いする事の方が、文字だけより、より深く心に残るように。孔子様も六経を学ばれていた。それを基に仁や忠恕という御教えを門弟たちに伝えていた。

冥加:仁義礼智信、忠恕を整理し、その形を明らかに示したのは孔子様。

佑弥:親子関係、兄弟関係が酷い故に、国の酷さゆえに、忠恕や仁が必要とされ説かれた。

奏江:もうこれ以上孔子様が周遊されても孔子様の教えが理解されるとは考えられなくなった。だから周遊して教えを広めることを見限ったというのであろうか?

重只:P104公冶長第5[26](「論語の講義」諸橋轍次訳より)で子路が、孔子様に志を訪ねたとき、皆が安んじ、信じ、懐かしめる社会を作りたい、と仰っており、そのような場所を自分の故郷で晩年に実現したいと思われたのではないかと思いました。

瑠璃:この章は、論語が後世に残されることとなったエポックメイキングとして認識しておくべき。もう一つには「歸らんか歸らんか」と繰り返し語ったその心像に、陳での諦めと、魯での希望を見ることが出来るということでいいのではないか。

公冶長第五[23]

子曰、伯夷・叔齊、不念舊惡。怨是用希。

子曰く、伯夷はくい叔斉しゅくせいは、舊惡きゅうあくおもわず。うらみここもっまれなり。

<議論>

佑弥:舊惡の言葉の意味は・・・

凡知:以前の不善という意味。

北星:昔の悪い事。「旧悪を念わず」とは、殷の王が死んでからは、その旧悪を気にせず、節を守ったことを指すという説もある。

正志:(人から)怨まれるのが希、(人に)怨みを抱くのが希、どちらの意なのだろう?

佑弥:自分が怨みが希とは違うと思う。旧悪を思わずの時点で、すでに怨みは無い。無いのだから、ここでは、「人から怨まれるのが希」ととる。

瑠璃:罪を憎んで人を憎まず。

佑弥:そういう事。怨みは無い。

瑠璃:潔白ゆえに狭量になりがちになるが、陥ることはなかった。 

奏江:細木数子が言っていたが、誰かが何かを失敗したとして、その部分だけを取りたててたたき続けたら、その人も自信をなくすし、人間関係がうまくいかなくなる。(思い出しましたが、鬼の首をとったように、と言っていました)

佑弥:この人は見込みがあると思っているから言うというのもある。期待があるから言う。見込み無し通じないと思えば言わない。

奏江:言い方がある。つるし上げるような言い方は、相手のことを思って言っているとは考えられない。

冥加:態度を改めなかったら延々言うかもしれない。

正志:「その行為を憎むのであって、その人を憎むのではない」の論語版という可能性はないかしら?つまり、伯夷・叔齋は人の旧悪は憎まない(今は改善されているから)、そうであるから伯夷・叔齋は人への怨みは希である、こう捉えるのは考え過ぎでしょうか?人から怨まれるみたいな受動態の場合は「被」のような字が必要な気がして、私はそう捉えてしまったんです。

佑弥:確かに、正志さんが言うように、自分が怨みを持ちにくい。希ともとれるようにも思う。

奏江:他の人が自分たちに対して行った悪い行為に対しても、相手が態度をあらためたら許すというのはどうだろうか?

佑弥:しかし、その悪を憎み、その人を憎まずだから、怨みを持たないのでは?希と発想が無いとは違う。

冥加:ここでは、怨まれない人は優れているということ。

佑弥:改善されれば問題ない。先入観を持たない。しかし、もし自分の身内に命にかかわるような事をされたら、激しい感情が沸き起こると思う。

瑠璃:感情が起きたとしても、執着をしない。

重只:とても日常的な例になってしまうのですが、奥さんがごはんを作って私の帰りを待ってくれている時、仕事で遅くなって食べれない事が良くあります。よく怒られるのですが、私がそれを改めたら、もう文句を言われないという事?

冥加:奥さんが旧悪を思わなければ、重只さんから恨まれないという話。

佑弥:(奥さんが)旧悪を思わない時点で(奥さんには)怨みは無い。重只さんをただ心配しているだけ。

冥加:恨まれない事が大切。

柴里:目には目を、歯には歯をのように、ずっと続くというのもあるよね。

凡知:この章の「怨」の解釈とは違うと思う。

冥加:正志さんの意見では、「怨みを念はず、是をもって希成り」でいいのでは?

瑠璃:ふたりがどれだけ清廉潔白だったかというと、周の食糧を食らうことを潔しとせず、首陽山に隠れ、ワラビだけを食べて飢えをしのぐが、餓死してしまう。

北星:徳川光圀も伯夷列伝を読んで感銘を受けたそうだ。

冥加:「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」と、ジャヤワルデネ大統領がサンフランシスコ平和会議で述べておられる。

佑弥:国の場合は同じように旧悪を思わぬ許しあう国同士でなければやられてしまう。のっとられてしまう。第三者的な中立国が哲学を持って(両方同時に賛同させて)いくようにしていかないと難しい。

奏江:伯夷・叔齊というお二人がいたとしても、いくらお二人が潔白だったとしても周囲にそれだけの良い影響が及んでいたのだろうか。

北星:伯夷・叔齊という兄弟は、儒教においては聖人としての扱い。孔子様の評価も高いが、周りへの影響力は無いように思う。

凡知:141p述而第七[14](「論語の講義」諸橋轍次訳より)に「伯夷・叔齊は古の賢人なり。仁を求めて仁を得たり」と孔子様は評されている。

重只:周の武王が殷の王を討つことを諌めたが、結局抑えられなかった。

柴里:司馬遷は、孔子の言葉に、「伯夷・叔齊は人の旧悪を思わず、人を怨むことがなかった。」とあるが、(中略)逸詩を読むと、あたかも怨詩のごとく、伯夷の真意が疑われるからである、とある。実際、(わらび)をとり、餓死に瀕するや作った詩の最後は、「そのかみの神農・、(こつえん)として今はなし。われいずくにかゆかん。ああ往かん、命の衰えたるかな」はたして恨むところがなかったものだろうか。(史記5列伝一ちくま学芸文庫10~11p)と解説している。

佑弥:伯夷・叔齊は殷の人だったんですよね。

北星:伯夷・叔齊はたがいに王位をゆずりあって、故国を去り、殷の王に仕えたが、悪政にあきれて、周の武王に帰した。

北星:もとより周に逃れたのだから、殷の王が討たれたからといって餓死までしなくても良いのではないかとも思える。

奏江:相手次第で、自分たちから積極的に現状を変えていこうという気持ちを感じない。

佑弥:殷の王を助ける為に武王を諌めた為に、行き場を失ってしまったのかもしれない。「下の国(周)が上の国(殷)を討ってはいけない」と武王を諌めたが聞き入れられず、周が殷を討ち、その周の国で食べ物を食べれば、周の考えを認めた事になるので、周の食べ物を食べない事で一貫した。周は、周りの国を治めていた殷を倒す事で、周りの国の上となり、つまり伯夷・叔齊は隣国にも逃げられず、逃げ道を失い餓死せざるを得なかったというのもあるのだろうか?

重只:でも自分の意思(信)を通すのに餓死することも厭わず、貫いたのはなかなか出来る事ではない。

奏江:餓死するくらいなら、死ぬなら国のために尽くして最後を遂げていただきたかった。

瑠璃:行き場を失ったのでは。

冥加:論語の世界観では筋が通っている。

柴里:伯夷・叔齊が「父王が亡くなられて、葬礼もおこなわぬうちに、干戈かんかを取るのは、孝と言えましょうか。臣の身で君をしいするのは、仁と言えましょうか」と、武王を諌めたときに、王の左右の者が二人を殺そうとすると、太公(武王の軍師大公望)は、「これは義人である」と手助け去らせた(史記列伝一11p)。そういえば、日本でも戦後、闇米を拒否して(食糧管理法に沿った配給食糧のみを食べ続け)、栄養失調で死亡した裁判官がいました。

瑠璃:一本筋が通っているとは思うが、仁者ならば生き延びる知恵を持つべきだったのではないか。

重只:無抵抗主義。

冥加:忠臣は、君子にとっては都合がよい。

奏江:この人たちの想いが周りに伝わらなかったのか。

瑠璃:江戸時代に「ひからびた、死骸があると、わらびとり」と川柳にまで、哀れな最期を詠われてしまっている。

奏江:最後に怨みのような言葉をのべて餓死してしまうようでは希望がない。

北星:孟子様は、伯夷について「こころせまし」と評している。

佑弥:上の人を討ってはいけないという自分たちの信を貫いたのだろう。

奏江:現実的な対処の仕方、つまり処世術というようなものはお持ちではなかったのであろうか。

冥加:さっぱりとしている。態度を改めたら二度と言わない。(一貫した理は義)

奏江:何かを成し遂げる時には、潔白なだけでは難しいのかもしれない。そこに行動が伴わなければ。

<この後、伯夷・叔齊の行動は、並大抵で出来る事ではない。できもしない我々が、とやかく言える事ではないとの学びがありました。>

以上