東洋哲学研究会
2015.08.29
雍也第六 21
論語勉強会議事録
2015年8月29日(土) 19:00~20:20
開催場所:春秋館
議論内容:本日は、雍也第六[二一]を学びました。
テキスト「論語の講義」諸橋轍次
雍也第六 21
子曰、知者樂水。仁者樂山。知者動。仁者靜。知者樂。仁者壽。
議論
瑠璃:論語の中では、知者と仁者がよく出ております。その相違について思惟することは重要と考え、議題に取り上げました。
遠雷:この章を読んで、すぐに「清静経」を思い出しました。万物は陰陽から生じ、動静がでてきます。一に戻るためには、清静となる必要があると書かれています。ドンとして動かない仁者(静)。変幻自在に変化する知者(動)。仁者は知者よりも上位にいらっしゃる方だと考えています。そして、仁者は、太陽のようにすべての方に仁をあたえていく。
北星:山は真理のように変わらないものの例えではないかと思いました。
佑弥:私も仁は、「うつりゆくものではない」から、いのち長し、なのかと思いました。象徴として捉えているけど、本質として捉えていないのかなと思いました。水の本質は、私が思う所ですが、純粋で、下流に流れ、形が無く自由無碍だと思う。 仁者も自由無碍と思いますが、ここでは、移りゆく変化していくものを水、知者として象徴的に捉えていると思いました。そう考えると、知者の水を楽しむは、移り変わってゆく変化そのもの、本質ではない表面的なもの、この世に物質として現れた姿を楽しむ。だから文化が発展していく。また、水という「部分」を見る、楽しむに対し、山という「全体」を見る、楽しむ。山は不動、信、変わらないもの、全体、調和、というような象徴として捉えているように思いました。
北星:水は事象のように移り変わっていくものを表していると思いました。
瑠璃:楽しむというのがポイントかと思います。水は楽しむ方向に変わっていく。水は流れて行くもの、そこにまだ迷いがあるということ。山に比べると智慧がないという感じがする。
秋実:私も知者の楽しみは、何かを追い求めているような印象を受けました。仁者も、山を楽しむとあるけれど、どっしりとして静かな感じを受けました。
北星:最初にこの文を読んだ時に、山は真理のように不変のもの、水は事象のように形を変えていくものを表しているのではないかと思ったと言いたかった。
佑弥:確かにそう思います。同時に、次元が違う気がして。全体と個みたいなもの。
麦秋:というか、仁者はもう仁を体得している、動かなくていいというか。水のほうは、揺れ動く。
柚子:私も知者は仁を求めようとしていて迷い、仁ではないような動きをしてしまうから、水のように動いて、仁者は、もう動かずにいれるのかと思いました。
麦秋:里仁第四【二】では、仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す。とある。仁者は仁のなかに安んじているが、知者は欲で仁を求めているように感じた。
風鈴:ここでは、一般の人が欲を求めるように、知者は仁を利すというふうに使われていると思うんです。ですから、欲で仁を求めているんじゃなくて、知者は清らかな意欲で、(道を求める)仁に至る前々段階の人だと思いました。そうやって求めることで仁者に到達することが出来て、仁者は知者の特質をも知っていて、ここの文のような事が言えるのだと思います。全く別物ということではなく、根本は一つのもの。
帆士:さっきの佑弥さんの(全体と個という言葉)を聞いて、山は育むものがあり、あらゆるものがあり、自然そのもののものがあって、全方位に(意識が)向かっている。全体と個というのは、(仁者と知者の)視点が違うんだなと思って。仁者は、楽しむというのとは違うんですが、自分の言葉で表せないんですが。山のように不動なものに向かっているというか。知者はどうしても自分の足元、欲求する方向に意識が行ってしまう。
佑弥:今の帆士さんの発言を聞いて、孔子様が顔回と子路に志を問われた時に、顔回と子路が自分の事を語ったのに対し、孔子様は周りの人達との事を語られたのを思い出しました。
瑠璃:知者は、知識があって、賢者かもしれない。知者がみな仁を目指しているかどうかは分からない。
遠雷:目指していると思う。
帆士:私はここでは、知者は仁者を目指している人というふうに思ったんですよ。
北星:私も目指していると思います。
佑弥:でも、知者はここで満足しているように思う。 知者は仁者をめざしている(意識している)とは限らないと思う。
上棟:目指しているから楽しいって思っているんじゃないかと思うんですよね。
帆士:仁の慈しむという心はこういうものなんだよ。知者はまだそれに至っていなくて。知者に向けての言葉と思うんです。うまく言えないんですが。
北星:今まで論語を学んできて、知者は、仁者に至っていない人という認識を持ちました。
佑弥:例えて象徴的に仰られているのかなと思って、水、移り変わるものを楽しむ。至らない人。
杜若:その例えっていうと、水って、変わっても、水という本質は変わらないし、あるいみ本質的なものかなと思って。
耕大:動くとか静かと言っているため、そういう意味での水と山の対比ではないと思うんですけど。
佑弥:仁者の山は、山の中には小川もあり、水もあり、「自然」そのものがある。自然の畏敬。そういう全体の自然そのものの象徴。自然と一体になっていると思いました。水は、個の真理追求という感じがして、山は慈悲というか、一体、仁は消耗しない、循環している。仁者は静か、禅のような感じがします。
奏江:水は易きに流れるというので、人は忌み嫌うが、そうした自然の現象をありのままに受け入れる、というのが老子様の思想にあったように思います。知者に対して、仁者は論語では上の位置づけにあるけど、ここでは、水と言うのは移り変わり、山はあくまで動じないが、両方必要というか。ここでの知者が、仏教での智慧に通ずると考えるのはどうでしょうか。
遠雷:昇華するという考え方がいいと思うんです。水も含みつつ、さらに山に向かう。その前の段階のものを含んだ上で、さらなるものになる。その昇華の意味合いかなと思うんです。
奏江:仁の上が徳でしたっけ? 知者と仁者が対比されているんだけど、上位の仁者に下位の知者を対比させることによって、仁者がもうひとつ上の徳に進むことが出来るというのはどうでしょうか。
遠雷:同意します。
筑波:憲問第十四[三〇]で「仁者は憂えず、知者は惑わず、勇者は懼れず、この三つを君子はめざすべき」とありますが、これはどうなるのでしょうか。
奏江:知者にも真理を追究している感じがあるというか、ここでいう知者というのは論語で今まで出てきた知者の定義と違うのかなと思ったり。これを読んで自分のことで恐縮なんですが、自分はとても知者でもないし、ましてや仁者でもありえないのですが、座禅を行なうようになってとても気持ちが落ち着いてきたんです。私はとても落ち着きのないところ(動)があるのですが、座禅で(静)を意識できるようになって自分がとても落ち着いてきて向上できたように思えるのです。
佑弥:憲問第十四[三六]に、怨みに徳をもって報いるのではなく、無私の心で報いる、徳には徳で報いるという解釈があり、仁の説明をしていたときに、この無私で報いるというのを聞いた時に、なんとなくヒントになるかなと思いました。
瑠璃:水は変化せざるをえない。変化したくなるような知者においては、いまだ欲が消えていない。だから水のように流れていってしまう。山は動じない。自分を滅している。座禅瞑想をしているようにどっしりとしている。そのように孔子様は表わされていると思います。
柴里:仁者は山のように動かない、その対極に動く水をもってきたという気がしました、だから水よりは、山を考えた方がいいのではないかと思った。あまり言葉尻(現物の山や水)にとらわれてはいけない。とらわれると水はH₂Oに変わりはないとなるし、山にも季節の移ろいがあり災害で崩れることもある、となってしまう。知者は楽しみ、仁者は、命ながし、というのは、最初句を読んだときは、この対比がしっくりきませんでしたが、解説を読んで、外物に心を動かされることがないので、ストレスも少なく長寿になると納得しました。
重只:私もなぜ水なのかなと思った。山と対比するなら海や川だと思うのですが、水だった。
凪沙:最初に読んだ時、「水」は「海」のことだと思いました。でも、海だとすると山と同じでいろんなものを育むことになるから、海のイメージとは違うかなと思った。山には水が染み込んでいく。いろいろなものを吸収して、とても包容力のあるものが山という気がしたんです。
瑠璃:山は、ずっとそこにあって、天からの慈しみを受けて、緑の芽を出して、木の実ができて、それが人へと、いろんなものを慈しんでくという気がします。
麦秋:仁、知者、勇者、一人の人間の中に3面あると考えてもいいんじゃないか。
奏江:両方必要というか。動があり、清がある。対比することで進んで行ける、陰陽のバランスというか、宇宙が生まれたのも無から陰陽が生じて有に至る。
麦秋:君子を目指すには総て、必要だとおっしゃっている。それが憲問第十四[三〇]の意味でしょ。
奏江:変わらないもの、信念というようなものを感じる。
瑠璃:究極的にはそこにとどまっていてはいけない。
麦秋:区別はするけど、差別はしていないと思う。どこにも書いていない気がする。仁者に対比する知者をもちだすことによって、さらに進めるような気がするんですよね。
奏江:だから、今は知者は水を楽しんでいるけど、そのような意識を持つことがさらに上の仁者を補うことにつながるのではいでしょうか。
帆士:いや、私は(仁者の意識の方が)上だと思う。
重只:論語では、孔子様が仁を目指しなさいとおっしゃっているから、仁者が上位なのが自然では。
麦秋:一人の人間の中で、仁も知も勇も必要と考えてはまずい?
凪沙:さっき麦さんが指摘していた「仁者は仁に安んじ、知者は仁を利す」と矛盾すると思います。
瑠璃:孔子様は仁はこれだと説かれていない。
奏江:知者に対してお持ちになっていたお考えが変化したということはないですかね。仏教における智慧に変化したということはない?
一同:そういうことはない。
帆士:勇者は仁者にまだ至っていないと思う。
耕大:これを読むとあきらかに、仁者が上の位置づけだと思うんですよね。
上棟:清らかな純粋な心で、目指して、だから楽しくなっていくんじゃないのかな。
瑠璃:維摩會の十徳目の、其の九の「智慧を持て」のところに、一切の観念に縛られることなく、とあって、ここに山のイメージがあった。
遠雷:知者は、智慧とは違うと思うよ。智慧は最高のものだもの。
佑弥:仁者は動かない、これという道がわかっているから。移り変わるものに捉われることなく、移り変わらないものですよ、仁者の山も。
瑠璃:なぜここで長生きなのかなと思った。
奏江:たとえ肉体の命がなくなっても、続いていくということを感じますよね。
遠雷:そうですね。
佑弥:仁は消耗しないんじゃない。移りゆくものに捉われないからいのち長し。仁者と知者は立脚点が違う。見ているものが違う。見え方が違う。
重只:永遠というようなイメージかと思いましたが、
北星:知者の楽しむは終わりが来るけれど、仁者は変わらぬ真理を見ているので「
杜若:楽しむは自分が楽しむけど、
奏江:私は求道を感動や喜び(これらを動と解釈すると)と考えてはいけないと思っていたが、仁者に至るのに動というのもありかと思ったのです。
遠雷:感動や喜びがあってもいいと思う。
風鈴:まったく別物ではなく知者のことも考えて、愛で仁者がいっている。
秋実:仁者は知者であったことがあり、仁者となったと思うので、知者のことがわかるから、おまえはまだ知者であるけれども、仁者ではないと。より器が大きくなっていくとわかるのではないかと思います。
小雪:孔子様が学問を思い求めているときは知者であり動であったが、仁を身に付け、どんと構えている静になったというのは、自分にはすんなり腑に落ちます。
耕大:孔子様が知者である弟子たちに言っているような気がします。
佑弥:顔淵第十二[二二]で、樊遲が孔子様に、知を問われた時に、孔子様が人を知ることだとお答えになられています。参考までに。
風鈴:人を知る人というのが、知という。(顔淵第十二[二二])知って考えて体得するというのは、知者だと思うんです。
瑠璃:知者と仁者って、かなりの距離のあるものだと思う。だから一緒に考えるのがとても難しい。同一に考えてはいけないと思う。
麦秋:そうかな。
佑弥:対機説法だから、その人に合わせて仰っている。
麦秋:君子の道って言ったら、仁者を目指せといえばいいと思うの。
遠雷:憲問第十四[五]に「仁者は必ず勇有り。勇者は必ずしも仁有らず。」とあります。仁者は必ず勇者をも含めた大きなものだということになります(逆はそうではない) 。
瑠璃:もしそれが同じだったら、我々が納得するような論理がなければならない。
麦秋:孔子様は仁だけではだめだ、学がないとだめだといっている。
陽大:まず、知者になってその次に仁者になるということだと思うんですけど。
柴里:陽貨第十七[八]に、麦秋さんの指摘した箇所が(好むという表現で)ある。「仁を好みて学を好まざれば、其の弊や愚(人におとし入れられ、人に欺かれる)なり。知を好みて学を好まざれば、其の弊や蕩(行いに締まりがなく、いたずらに高きに馳せる)なり」。
奏江:ここでコントラストしたということが意味が在ることだと思う。仁をより高まっていくような気がして、知者の存在として。並列にはおけないんだけど、知者の存在をより意識することで仁者が深まっていくというか。
耕大:知者が努力して求めているという感じがするが、仁者はすでに得ている人という気がする。
重只:全然飛躍した例えかもしれませんけど、知者と仁者の差は、子供と大人くらい差があるのかなと思いました。子供と大人では全然目線が違っているし、見える範囲も全く違う。子供は目の前の事しか見えないけど、大人は見通せるわけじゃないですか。
柴里:(大人が子供を経ていうのは、仁者が知者を経て知者をよくわかるという意味で)わかりやすい。
小雪:なにかが起きた時に、移りゆくその現象をみているのか、そこにある因縁、真理をみて、動じないのか、という感じが私はします。
帆士:山を観ようとしても、全部が見れない。それは全方向に
重只:ちょっと捻くれた意見ですが、もし何にも捉われないのなら、水も山もどちらも楽しんで、区別がない、となると思います。
帆士:相対することで、知者にわからせようと意図して例えたという気がする。
奏江:水は変化するし、刺激的なんだけど。山は不動だし、信仰心のようなものを感じるので。ここは例えをあまりつっつく必要もないと思うんですけどね、どんと構えていることのたとえで、山だね、ちょろちょろ流れる水とは違うね。
凪沙:この部分を仁者の対立するものと読んだら、「知者」ではなく、「愚者」と書くと思う。
風鈴:そういう捉え方は間違いじゃないと思います。佑弥さんの感覚的なものをたよりにしていくのは、とても共感出来ます。
隼人:全然知識がない私がこれを読むと、私は動くほうが得意なので、静かな仁者の方がすごいのかなと思ったんですけど。知者の表層のものを楽しむというか。
瑠璃:隼人さんはここで知者と仁者、どっちが上位だと思いますか?隼人さんが感じたその感覚で、読むでいいと思うんです。
柴里:西洋哲学ではこれはどういう位置付けになるんですか?
筑波:知の捉え方が全然違うと思います。西洋哲学では知は最上位に立ちます。静かに真理を見るのが知者、だからここでいう仁者の雰囲気のように感じた。観想や観照という在り方で、テオリアつまりセオリーであり理論です。ここで満足し法悦のような状態とみる哲学もありますが、西洋哲学では座禅のようなものもなく仏教の立場には到達していない。ただ、この現象界自体の変化は完璧な世界を目指していると考える哲学もあり、仏教と同じで怠惰とかに流れるのがいけないとしています。
重只:それは真理と言う別個のものがあって、それを目指しているということなんですか?
筑波:キリスト教だと断絶が有ると思うけど、魂は完璧な世界に住んでいたと捉えるギリシア哲学もあります。その場合には、知ることは思い出すということになります。
佑弥:だから動かないんじゃない、自分の中にあるんだから。
奏江:川と山があったら、知者は水に興味を持つ、仁者は山に興味をもつ。私は昔から落ちつきがなかったが、維摩會で座禅をして静かな世界も感じられる様になりました。
瑠璃:知者は落ち着きがないということですか?
佑弥:「知者は動く」とは、「落ち着きが無い」という事ではないと思う。落ち着きがあっても動く人は動くと思う。
上棟:それは同じ仁者ではないけど、仁者に少し近づいた知者。
佑弥:話が戻るんですが、さっき筑波さんがおっしゃっていた西洋哲学の知者は自分のなかの真理を思い出すということだから、仁者は静かというのがそうかなと思う。すでに自分の中にある。
風鈴:思い出すってすごく感動しますよね。すごく思い出したい。
筑波:東洋哲学では、それが座禅瞑想になる?
佑弥:表面的には今まで知らないと思っていた真理的内容が、何も考えずに出てきた瞬間、実は知っていた事だったと、そうだったと驚く事がありますよね。
奏江:自分が見たくないものには人はフタをする場合があるので、本当はわかっているのに気付こうとしない。
佑弥:そういう事を言っているのではないです。個人的な事ではない。
筑波:経験界は不完全で、例えば完璧な三角形は現実にはかけなくて、それは定義の世界になり、それを古代の人たちはシンプルに完全な世界があるとして魂はそこに住んでいたと考えた。だから私たちが完璧な世界を知っているのは、それをすでに知っているから、と言えるのだと思う。キリスト教以前なのですが、魂は完璧な世界にあり、肉体にとらわれてしまっているとみる見方があります。
冥加:遅れて来て恐縮ですが、楽しむと次には苦果がくる、苦果がくれば楽果がくる、それが変化。対して、動かないのは、真理を把握している仁者とかそんな話があったの?
北星:動かない山は真理を表しているといった話はありました。私は仁者は知者よりも上に位置すると考えています。
冥加:普遍の真理みたいな意味で、
北星:はい、そういった意見を述べました。