東洋哲学研究会

2015.08.15

論語 公治長第五 24・23

論語勉強会議事録

2015年8月15日(日)14:30~16:30

開催場所:春秋館

議事内容:本日は、公治長第五〔二四〕を学びました。また、 前回議論した公治長第五〔二三〕を再考致しました。

テキスト「論語の講義」諸橋轍次


論語 公冶長第五 24

子曰、孰謂微生高直。或乞醯。乞諸其鄰而與之。

子曰く、 たれ 微生高 びせいこう ちょく なりと うや。 ある ひと けい  う。 これ となり に乞いて これ あた  えたり。

議論

北星:普通の解釈なら、「誰が微生高を正直者というのか。ある人が酢を分けてほしいと貰いにきたときに、それを隣から貰ってきて、あたかも自分の物のようにして与えたではないか」といった否定的な意味の解釈になるが、「直なり」というところを「馬鹿正直で融通がきかない」という意味で解釈すれば「誰が微生高を馬鹿正直で融通がきかないというのか。ある人が酢を分けてほしいと貰いにきたときに、馬鹿正直に無いとはいわずに融通をきかせ隣から貰い受けて与えてあげたではないか」といった肯定的な意味の解釈も出来る。  

凡知:徂徠の解釈では、「自分の家に醯がなかったのをそのまま還らせるのに忍びず、隣家で借りて之に與へたことは委曲親切である。馬鹿正直で融通がきかない人ではない」と、微生高をけなしたものではない。 

北星:注釈にあるような、婦人と橋の下で待ち合わせをして、来ない婦人を待ち続けて、増えてくる川の水で溺れ死ぬような馬鹿正直で融通のきかない人ではない、と評価している解釈も出来なくはない。

瑠璃:隣から貰ってきたと言えば正直。  

北星:解説のように、手持ちがないのに隣から貰い受けた物をあたかも自分の物のように与えるのは、やはり心に偽りがある。  

凡知:私なら言わずに渡す。借りてきたから、はい渡します、ではなく言わずに渡す。こういった時に、ああだこうだと言うのは好きではない。相手が気にしないように。  

北星:貰ってきたと言うと、相手が気にするのではと思う。「直なり」という言葉が、どういう意味かで解釈が変わってくる。  

佑弥:隣の人からもらったと言わない事で、本人はお酢を分けてくれた人を陥れる(言葉が見つからず適した言葉ではないです)つもりはなくても、本来隣の人が評価、感謝される所を、そうさせなかったという因縁ができるのではないか? 例えばAさんがBさんに提案し、BさんがAさんの案で行動し成功した報告を上司に、Aさんの名前を出さずに報告した場合、Bさんにそのつもりがなくても発生してしまう因縁があるのではないか。また、お酢を頂いた隣に感謝の気持があると、渡す相手にも、これは隣から貰ったものですと言うのではないか。或いは、自他の境界が無い、(古き良き時代の日本ような、醤油を貰うとか)そういう意識の場合は、言わないかもしれない。  

北星:酢を実際に持っていて分け与えた人が最も評価されるべきだが、微生高が、あたかも自分の物のようにして与えて、微生高だけが感謝などの評価を受けるのはいろいろな意味で良くない。  

瑠璃:陰徳を隣の人が受けている。ただ微生高に計算があったかどうか? 

佑弥:無意識でも結果そうなってしまうと、良くない因縁を作るのではないか?  

筑波:物の場合には誰のものかはわかりやすいが、その点情報などはあいまいであり、他の人に聞いて、それを伝える事は実際にはよくある。 

重只:仰るところの主旨は分かるのですが、他人の案や考えを自分の考えに、という事を突き詰めていくと、全てオリジナルで無ければ成らなくなるのではないでしょうか。もともと見聞きしたことは自分は最初は知らない事なので、どこまでが、というのは難しいと思います。  

佑弥:感謝が足りないのではないか?そうでなければ孔子様がご指摘にならなかったのでは?  

奏江:そこまで意識していなかったとしても、自分の手柄にするというものがあったのでは。一言隣からもらったと言えば済むことだと思うのに何故そう言わなかったのか。  

北星:この文だけだと隣から貰ったと言ったか、言わなかったかは分からない。  

瑠璃:ちゃっかりしている?  

北星:ちゃっかりしているのは、あくまでこの本の解釈にすぎない。  

筑波:世話好きとしてみる事ができないか?  

瑠璃:読み方は、両方とれる。  

奏江:困っている人が居て、何とかしてあげたい、という気持ちはあったと思うが、無意識であっても自分の善意を相手に評価してもらいたいという気持ちがあったらどうなのだろうか。そうならば直とは言えないと思う。プロジェクトで企画をする時、部下が出してきたアイディアをあたかも自分のアイディアとして会議で発表したという映画を見たことがある。その時、その上司は会議でかなりの評価を受けた。しかし、後日部下のものだとわかり確か左遷させられ、部下が昇進した。こうして因縁が果たされた。当然のことと思う。これは今回の微生高の話からすれば極端な例かもしれないが、意識するしないにかかわらず、人からもらったものをあたかも自分のもののように相手が誤解するような差し出し方はよくないと思う。  

筑波:アイディアであるのならば、NETの時代になり、著作権としてきちんと考えられるようになっているようです。  

瑠璃:お酢は物質であって、貰いに行けるもの、アイデア等まで広げてしまうと範囲がずれてしまう。

凡知:もっと素直に読みたい。  

筑波:このころのお酢は高価なものだったのでしょうか?  

瑠璃:自家製ではないのか?  

筑波:日本で、ご近所でお醤油を借りるようなこととは違うのでしょうか?  

北星:微生高がここまで否定される事ではないような気もする。  

重只:時代背景もあるのでしょうが、そもそも、正直者で評判になる、という事自体があまり想像できないです。  

佑弥:あの時代に正直者がいないから微生高は有名になったのでは?  

重只:微生高が極端に不正直であった、と孔子様が仰ったのではなく、時代背景に即して、正直として有名に成りすぎた微生高への評価に対して、それほどではないよ、と孔子様が仰ったと思います。「直」であれば、自分がお酢を持っていなければ、隣の人が持っているよ、と言うのではないかと思います。  

瑠璃:微生高は隣に酢があるとわかっていたのかな?微生高と隣の人との距離とか関係とかもあるかもしれない。  

凡知:孔子様は微生高の直を批判してはいない。  

奏江:乱れた世の中にあっては、他の人に比べれば微生高は正直ものであったのではないかと思う。ただこの人の心の中にあるものをみて、その心の元の部分が問われているのでは?どうして貰ってきたと一言、言えないのか?隣の人から貰ってきたと一言、言えればよかったのに。  

凡知:自分の手柄にしようとした人ではないと思う。  

奏江:わざわざ論語に載せているので意味がある。ここから何を教訓とすべきか。  

佑弥:奏江さんのその人の心の元の部分が問われているという意見に賛成。孔子様が仰る「直」を考えた方が良いのでは。

筑波:知っている事は知っている、知らない事は知らないとする、ということが孔子様のお教えにありました。(為政第二の17)  

北星:孔子様の評価では、無いものは無いと言うのが評価が高そう。  

筑波:あれこれ画策するなということでしょうか。  

重只:まっすぐでないものを感じられたという事でしょうか。  

北星:ありのままではないという事だと思う。  

瑠璃:この酢を借りるという一件によって、正直とはということをお示しになられている。  

佑弥:直のない大変な時代背景から、周りの人に教えるという意味で、分かりやすく一つの例として孔子様が仰った。  

奏江:これは日常に起こりうるちょっとした一例であるが、この些細なことがあらゆることにつながり大きなことになっていくのではないか、と思う。  

凡知:直なりの意味、仁と解すれば違うのでは、微生高は直ではないかもしれないが、仁の有る人かもしれない、という可能性があるのではないか?  

瑠璃:たかだかお酢を貰うだけのことでも、その行いから、直かそうでないかを判断することができる。  

北星:ありのままではないという事が、直ではないということ。  

凡知:直とありのままは違うと思う。  

佑弥:凡知さんの隣から貰ったとは言わないというのは、礼の必要のない仁がある人同士の場合や、古き良き日本の場合のような、そういう状況ならわかるが、当時の時代背景が酷すぎるので、このような事を孔子様が周りの人に対し仰ったのではないか。直であれと仰った。  

筑波:孔子様が微生高を見て、それは直でないと思われたという事ですよね?  

凡知:孔子様の「直」に対する考え方がここに出ている。  

重只:やはり正直者で評価されるくらい時代背景が荒んでいた 。 

筑波:微生高は相手から感謝されたかったのでしょうか?  

瑠璃:感謝されたかったら、論語のこの章における孔子様の表現が違ったのではないか 。 

凡知:微生高は直とは言われない。  

北星:それにしても、この本の解釈では微生高は批判され過ぎの感がある。

瑠璃:微生高が正直ものとして有名だったから、そうともいえないこと、間違いを指摘しなければ誤った方向に導いてしまう。 

奏江:大変な時代だからこそ些細なことでも安易に考えてしまうと大変な事に通じてしまう?  

北星:微生高はどうすれば直だったのか?  

佑弥:お酢が無い事を正直に言って、隣から分けていただいたと伝える。微生高は、お酢が自分の所にない事を隠そうとする、素直に言えないというのもあったのでは?  

奏江:なぜ言えなかったのか、格好つけに見える。  

北星:プライドがあった。  

佑弥:隣の人からもらったと感謝の言葉があると思う。それが微生高にはなかった。  

重只:微生高が隣にお酢を貰いに行く時、お酢を乞いに来た人も微生高と一緒に隣に行った。微生高がお酢を貰う時、その場にいたという解釈は出来ないでしょうか。  

佑弥:それだと論語にのらない。  

重只:この訓示で孔子様が仰りたかったことは何でしょうか。 私は、瑠璃さんの意見(微生高の間違いを指摘しなければ間違った方向に導いてしまう)に賛成です。  

瑠璃:常に自分の心を偽らない事に重きをおいている点。  

奏江:格好つけていて潔くない。自分をよく見せて人からの評価を得ようとしている。自分のところに無いなら無いと言えばいいのに。  

凡知:孔子様は、微生高をそしったのか、有る程度評価したのか。  

佑弥:直なりのとり方がどうか。  

凡知:直でないと言われているだろうが、人格は別かもしれない。他の面で評価されるということはある。  

佑弥:直なりとは、人格も含まれているのではないのか。  

奏江:何か教訓を得たいと思えば、今回の題材は直ということに絞って、直とはどのような人格をいうのか、考えるきっかけになるのだと思う。

北星:公冶長篇は、人物に対する論評が多い。

瑠璃:正直者と言われているが、そうでない所もあるよと。反対に普段は正直者でなくても、事柄によっては正直になる人もいるだろうし、正しい判断、見方をしなさいということ。

奏江:公治長編は人物に対する論評が多い、ということだが、そこから人格とはどういうことなのか、学ぶこともできる。ものの見方として、微生高の行いから、直を正しく見ようとすることによって、微生高のそれ以外の人柄もみることができるのだと思う。

奏江:北星さんの直を融通が利かないとする解釈は、ここではあてはまらないように思うが面白いと思う。微生高は、隣の人にもらってきてまでお酢をある人に渡してあげた、というのは融通が利くとする解釈で、微生高を誰が直であると言ったのか、こうして融通が利くのであるから直でないのではないか、ということですよね。当時お酢というのは普通にどの家庭にもあったものなのでしょうか。貧しい家にあってはあるいは普通の家庭にあってもお酢も貴重なものであったかもしれない。ですからお酢がないというのは恥ずかしいことではないと思います。なのにお酢が無いと素直に言えなかった微生高はやはり不誠実であったと思います。

佑弥:お酢は、時間をかけて手間隙かかったものかもしれない。それを隣から貰って何も言わないであげるのは不誠実ではないか?

奏江:辞書で調べると、明解辞典には直は「心や考えがまっすぐで正しいこと。素直なこと」とあります。

佑弥:諸橋氏の解釈には、「お酢は、かゆに酒をまぜて醗酵させたもの」とある。

瑠璃:正直者ならば、隣からもらったと言っているよ。礼をも説かれている。隣人への礼の心があるなら、隣からの貰い物ですと言うと思う。

佑弥:乱れている世に礼を説く時代だから、正す意味ではないか。


前回議論した論語 公冶長第五 23 伯夷・叔齊の話へ戻りました。

前回の議論は、机上の空論であったため再考致しました。当時の厳しい時代背景の中で、生身の人間として、自分に当てはめて実践できるかと、考える必要がありました。そう考えると「伯夷・叔齊の行動は、並大抵で出来る事ではない。できもしない我々が、とやかく言える事ではない」という事です。この事を受け止め、再度、議論致しました。

公治長第五23

子曰、伯夷・叔齊、不念舊惡。怨是用希。

子曰く、 伯夷 はくい 叔斉 しゅくせい 舊惡 きゅうあく おも わず。 うらみ ここ もっ まれ なり。

議論

奏江:伯夷・叔齊は、たとえ、わらびを食して飢え死にしたというその行為を笑われたとしても、潔白を通すのは凄い事だと思う。

佑弥:武王に申し上げる、諌める時点で、命を捨て去っている。スタートの時点で自分にはとてもできないことでした。

奏江:無抵抗主義。一本筋が通っているが影響力は大きくないのではないか。武王に申し上げた時点で自分の名声を捨てる覚悟ができている。

佑弥:伯夷・叔齊は周りに影響力があったのかもしれない。だから秩序を乱してはいけないと、周りへの影響力も考え、命をかけて自分の言葉を貫きとおしたのではないか。

凡知:荘子からはかなり批判されている。名誉ばかりを重んじて、孔子様も批判されている。

瑠璃:死ぬ覚悟での諫言であったなら、なぜ隠れたのだろう。

重只:武王に対して箴言できる立場にある方々だから、もともと社会的地位はあったと思います。その立場で、箴言したことに反して殷の王を討った武王に対して、命を掛けて訴え続けて、「周の食物は食べない」として、礼に殉じて飢え死にされた。そこには社会に対するプロパガンダの意味もあったと思います。実際に今まで語り継がれ、逸話にもなり、仁者として評価されている。

北星:現代に生きる私の感覚では、餓死で良かったんですか?と考えてしまう。

瑠璃:孔子様は評価されているが、生き延びるのならもう少し知恵のある生き延び方を思わなかったのか?

佑弥:自分が当時のその立場であればどうしたか?

奏江:自分の信を貫いて、国のために餓死できるだろうか。

北星:信念を貫いての餓死は真似できない。格好悪くはない。

瑠璃:その前の段階で格好良いと感じた。

奏江:今回、彼らの生き方は見習おうと思ってもそう簡単にできるものではない。彼らの生き方を見直した。しかし、武王の所に残っても、そこでも輝きを保っていくことはできたのではないかとも思う。

佑弥:何の為にこの人達は生きるのか?周りの人への影響力もあってそのように考えたのか。

瑠璃:自分の事しか見ていなかった。

佑弥:確かに、自分の事しか見ていなかったかもしれない。国を譲った人だった。餓死せずに要領よく他の方法で成功できなかったのは、自分の事がわかっていたからかもしれない。もし、自分に力があり、自信があれば、度量のあるやり方で、結果良くする事ができるならやったかもしれないが、自分にはその力が無いと判断した。

凡知:仁を求めてやった。そして仁を得た。

以上>