東洋哲学研究会

2015.08.02

論語 公冶長第五 21

論語勉強会議事録

2015年8月2日(日)14:30~16:30

開催場所:春秋館

議事内容:本日は、公冶長第五〔二一〕について学びました。

テキスト「論語の講義」諸橋轍次


論語 公冶長第五 21

子曰、甯武子、邦有道則知。邦無道則愚。其知可及也。其愚不可及也。

子曰く、 甯武子 ねいぶし くに 、道有るときは すなわ なり。邦、道無きときは則ち なり。 には及ぶ し。其の には及ぶ可からざるなり。

議論

凡知:テキストの99頁後半にある別解釈の方を私は採りたいと思います。衛は外からは攻められ国内は乱れていた。そのような状況下で、当時の 知巧 ちこう の者は、身の安泰を図るため身(地位や官職)を退き、身を隠すのが常であった。しかし、甯武子はそれにとらわれず、我身の利を顧みず国のために尽くし 成公 せいこう すく ったので、世間では愚者であるといわれていた。孔子様は「知者である甯武子が、邦に道無きときに愚者の如き振る舞いをしたことは、誰にもできないことである」と賞された。

正志:大愚ということかしら?

冥加:解釈に愚を あざけ る言葉として「其の愚や及ぶべからず」とあるのはどういう意味か?

重只:これは後の世で言われたことだと思います。あまり実際には聞いたことがないけれど、批判的な意味合いのようです。

瑠璃:明治書院では、国が乱れた時世にあっては、陰にまわって損な役廻りを買って出て国難にあたった人で、外目には全く馬鹿者のようにみえた。智恵者たることは真似ができるが、馬鹿者のようであった偉大さは、とても及びもつかないところだ。

冥加:賢い行為に思えるが、馬鹿に見えるのか?

凡知:道無き時、国難に誰かが対応しなければと意を決した。

冥加:悪政を く成公をフォローしているのか? 愚かな政治が起きている。その乱れを破綻しないようにフォローしていたとすると、知恵者でないとできない。

柴里:フォローしていた事例が左伝の記録に残っています。

朝顔:甯武子としては、あくまでも自ら信ずる正しいことを為した。ただ周りの評価として良く見えたり、愚かに見えたりしたということかしら?

麦秋:2人の君主に就いた。文公の時は道にかなった政を行なっており、甯武子もその中で力を発揮し、成公となりどうしようもない治世となってもうまく立ち回り国を支えた。

佑弥:道が無い時に正しい事を言うと、(道の無い相手からすれば、危険人物となり)任を解かれたり、命の危険を考えると、甯武子はかなりの人物。

瑠璃:愚者のような振る舞いの中に智恵があった。

凡知:論語の今までの事例では、濁ならば逃げる、避ける、清の所を探す、待つのが賢き者。それをせず敢えて自ら泥沼(濁)に入って行った。そうであるから世間では愚の如しと称されているが、と孔子様は仰った。

柴里:左伝によると、愚者として記録されてあるようには見えない。一生懸命主君を補佐して国のために働いていることを孔子様は一貫して評価されているように読める。朝日文庫の吉川幸次郎監修論語上154~155頁で、左伝の記録が紹介されている。魯の 僖公 きこう 二十八年(BC632)、晋と楚が、 城濮 じょうぼく の戦いで、一度国外に逃げた成公が、国に復帰すると、甯武子が国人をあつめ、いずれの党派も、国家を思う心は一つであるから、以後は仲良くするようにと、誓約させ、うまく危機を 収拾 しゅうしゅう したこと。しかし党争はなお終結せず、成公は反対党から告訴され、覇者である晋の文公の法廷で裁判されることになったが、甯武子が、成公の弁護人の一人となり、 訴訟 そしょう に負けたけれども、その忠実さを晋側から尊敬されたこと。訴訟に負けた成公は、周の都に 拘禁 こうきん されたが、甯武子が、差し入れその他に細かな気を配ったこと。さらにまたその翌翌年、獄中の君主が、晋のために毒殺されかけた時、甯武子が医者に賄賂をやって、毒薬を薄くし、その命を助けたこと。 僖公 きこう 三十一年、成公が夢見が悪かったというので、祭るべき神でない しょう を祭ろうとしたとき、「鬼神は其の族類に非ざれば、其の祭りを受けず」と言って甯武子が拒絶したこと。

重只:逸話を聞くと、愚という感じがしない。

柴里:多くの国に分かれて争っている時代に、ダメな君主に仕えているという事が愚と言われているのではないか。

麦秋:賄賂を使って君主を助けたのは濁、すなわち愚と言うことではないか。清で行くのが知。濁を使うのが愚。

冥加:当時は、賄賂は普通だったのでは?イメージで話しているけど。

佑弥:「道無い時には、愚で行く。」ここで愚というのは、清と愚が分けられないというか、愚をして清たらしめるというか、その場合、その愚は清と作用するというような感じ。

瑠璃:愚を装う事で国政を治めていた。装わねばうまく行かなかったのでは。

柴里:関連した左伝の記録を、吉川幸次郎氏の本から追加して紹介します。魯の文公四年(BC623)、衛の使者として魯に来朝したとき、歓迎の宴会で、場違いの音楽が演奏された。甯武子は、そっぽを向き何の挨拶もしない。魯の接待係が いぶか ってそっと注意すると、「さっきのは楽人たちが、稽古の手あわせをしているのだと思いました」と言い、主人側の顔をつぶさずに、その誤りを指摘した。衛の国の卿である甯武子のために、天子が諸侯をもてなすための歌が歌われた(参考:岩波文庫の春秋左氏伝 上、336p、小倉芳彦訳)。それに対し「今のは練習でしょう」と相手をフオローした様なことが記されている。

冥加:とても愚とは思えない。

佑弥:道有る時、無い時がわかっていて、しかも逃げずにうまく対処していた。

冥加:大夫は逃げて清と言われる(公冶長第五【19】)逃げ出さずにいることがもうそれだけで愚。

瑠璃:この頃の大夫にとってはその身の処世術として、逃げ出さないことの方が愚かであったのかも知れない。

凡知:道無きときにも自分の欲を抑え忠に生きた。はた目からみたら愚に見えたが、孔子様からご覧になったら・・。

冥加:国民の為には、成公は倒した方が良かったのでは?

朝顔:目的がぶれない人だったのではないか? 天皇制を研究している国学者の意見にこんなものも聞いています。悪い王を倒すのは良くない。下剋上が起きてしまう。倒してしまうと乱れてしまう。安定への道が絶たれる。

瑠璃:一身の利害を顧みず愚かな君主に仕え殉じたことは、人が見たら馬鹿に見えたかも。

冥加:甯武子は王と国民、どちらを見ていたのだろうか?

瑠璃:国ではないか。

重只:成公はひどい君主だったのですよね?

麦秋:かなりなダメ君主だったようです。

瑠璃:成公がダメな君主で、忠告などを聞き入れない。甯武子は大石内蔵助のように周りを欺いても、志を成し遂げようとした。周りからは愚者に見えていた。偉大なる愚者。

凡知:衛は北の晋と南の楚の二大勢力に挟まれ苦悶する小国であり、国内にもそれらの派閥が出来て、どちらの派閥につくのが得か損かで国内を乱れ、政変が起きてもおかしくない国難の状況下であった。

冥加:派閥が出来てしまう事は愚かだよね。

瑠璃:見えていないという事は怖い。

凡知:見えていないという事を認めなければならない。気付かなければいけない。

冥加:見えていない事には気づくことすらできない。

重只:気づいていない事に少しでも気づくにはどうしたら良いのでしょう?

麦秋:その時にベストを尽くすしかない。

冥加:先ず、「気付いていない事がある」に違いないと思うことだと思う。

佑弥:顔淵第十二「二十二」に、曲がった材木の上に平らな材木を載せておくと、いつの間にか曲がった材木が平らになってしまう。という例え話のように、わからなくても、わかるものが上におり、そのまねをする。従う。職人が、言葉では伝えられない部分(意識)を、一緒に行動する事で見よう見まねでわかってくる事がある。だからその道に優れた人物につく事。

凡知:実生活の中で一言指摘されることがある。その時に気づくようにする。なぜ言われたか。

以上