東洋哲学研究会
2015.07.11
論語 公冶長第五 18
論語勉強会議事録
2015年7月11日(日)11:00~12:00
開催場所:春秋館
テキスト「論語の講義」諸橋轍次
論語 公治長第五 18
子曰、臧文仲居蔡、山節、藻梲。何如其知也。
子曰く、
議論
筑波:ずしんと重くのしかかる様な内容ですね。「礼を犯す」。
瑠璃:天子にしか許されていない行為。知者であれば自分の行なった越権が分かるはず。知者でないからそういうことをしてしまう。臧文仲は文というおくり名をもらっているくらいなので、名声はあった。位は上の方。大夫の期間は30年と長い。
凡知:論語には、世間では知者などともてはやされているが礼を知らない者あり、というくだりが多い 。
重只:有名になり、名声を得る事と礼がある事とは全く違うという事でしょうか。
凡知:世の中で評判が上がると偉いと思われるが、礼を知るとは違う。八佾第三[22]に「子曰く、管仲の器は小なるかな。或ひと曰く、管仲は倹なるか。曰く、管氏に三帰有あり。官事
瑠璃:世間では彼を知者と言っているが、下村湖人訳の「身の程知らず」というのがぴったりくるように思う。身の程を知れば、天子の真似をすることを考えもしない。
筑波:勘違いしてしまうのではないか。
瑠璃:勘違いどころではなく、傲慢。確信犯的。権力志向を心の中だけではなく、形に表してしまっている。
重只:臧文仲は何故そんなことをしたのか。自分はすごいんだぞと誇示する必要があったのでしょうか。
凡知:自己顕示欲。当時、臧文仲は世間では知者と称されていたので、知者と思い上がり傲慢になった。
瑠璃:自己満足。
重只:そうだ。自分はすごいと威張りたくなる人は多いのではないでしょうか。そういう人は知者ではないよと孔子様が言われている。
筑波:それは知者じゃない。それこそ身の程知らず。
凡知:雍也第六[20]「樊遅、知を問ふ。子曰く、民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざくるは、知と謂ふ可し。仁を問ふ。曰く、仁者は難きを先にして獲ることを後にす。仁と謂ふ可し。」とあり、本章とは反対に、知者を説いている。
瑠璃:ここの文章は素直な解釈で、世間では評価されているが、分を弁えない者は知者ではないという、この解説と同じと考えてよいのではないか。天子と同じことをするのは礼を失している。世間で評価されているからといって知者とはいえない、ということを孔子様はお示しになられているのではないかと思う。
重只:知者は君子を目指す人でしょうか?
筑波:知者は仁者の下?
佑弥:知者より仁者が上。知者と仁者の違いは、雍也第六[21]に「子曰く、知者は水を楽しむ。仁者は山を楽しむ。知者は動く。仁者は静かなり。知者は楽しむ。仁者は寿ながし。」とある。
筑波:里仁第四[2]「子曰く、不仁者は以て久しく約に
瑠璃:仁に安んずるまでには至らなかった。
筑波:心がけてはいるけれども、まだそこまでは。
筑波:本文の意味、亀とか水藻とかの形容が頭に入ってこない。直接亀を使ったのか?奇門遁甲?(「論語新釈」《講談社学術文庫》より、当時の亀や水藻の絵を見せてもらいました。)
瑠璃:九星って亀の甲羅に関係していたと思う。
筑波:亀の甲羅を使う占いがあった。甲羅を焼いてひび割れて占うようなことだったと思う。
瑠璃:亀の甲羅を使うということは亀を殺していた?
重只:亀、山、水藻の彫刻を行なうことが、礼を逸していたという事ですよね。
瑠璃:王様だけに許されていた。
重只:名声がある人をすごいと思ってしまうのが凡夫。
凡知:論語新釈(講談社学術文庫)によると、「臧文仲は大夫の身分でありながら、臣民として務むべきことをしないで、このように鬼神に媚びるようではどうして知者と言われよう」とある。
佑弥:亀の甲羅に占いが天子の礼を犯すということ?
瑠璃:大夫の分際でやってはいけない。
佑弥:関係性によるという事ですね。
凡知:礼を知る君臣なら、君子が蔡を守るのを犯さないものだ。
筑波:畏れをしらないからこういうことをしてしまう。
凡知:自分も周囲も取り巻きも含めて周りもよいしょする。
筑波:それが礼を犯していること。
以上