東洋哲学研究会
2015.06.14
論語 公冶長第五 11
論語勉強会議事録
2015年6月14日(日)14:30~16:30
開催場所:春秋館
本日は、公冶長第五〔十一〕を学びました。
テキスト「論語の講義」諸橋轍次
公冶長第五 11
子曰、吾未見剛者。或對曰、申棖。子曰、棖也慾。焉得剛。
子曰く、吾未だ剛者を見ず。
議論
麦秋:師は欲があるからだめだと。
筑波:質実剛健の剛である、という解説もある。
麦秋:欲があるとなぜ悪いのか。
北星:諸橋氏の解説の通り、「欲心のある者は、必ず求めるところがあり、求めるところがあれば必ず利に屈し勢いに屈する。従って剛者ではありえない。」
柴里:諸橋氏の解説と、質実剛健ではあわない。私欲が無いと質実、「飾り気なくまじめ」だろうが、その逆は言えないと思う。
筑波:内なる強さ?
凡知:柔よく剛を制すの剛か?剛者は柔軟ではない?
麦秋:剛者の定義は何だろう。
奏江:屈しないという事では?
筑波:一般的解釈ではないとあるが「欲の深い人間は負けるのが下手。良い負けっぷりが剛者ではないか?」。
奏江:負けるとはこの場合はどういうことだろうか?
北星:その解説は少しひねり過ぎの感がある。
筑波:潔い負け方。相手の良いところを認める。
正志:その解説は人との勝ち負けに目が行き過ぎている感じ。
奏江:相手のいいところを認められるのは欲が無い。
柴里:自分に拘っている。
北星:未だ見ず、という事はご自身の弟子にもいないという事か?
麦秋:やっぱり弟子も私欲がある。真の剛者ではない。
奏江:欲があると、正しい方向に行かない。
重只:大欲があるのではないか。
奏江:正しい思い。仁になろうとする思い、国を良くしようとする思い。
柴里:欲というよりも志。
凡知:志(正念)があり、私欲(自分を良くする)に頓着がない。
筑波:智慧が備わっていないと正しい方向に行かないのでは。何が正義か分からないと思う。
凡知:智慧がないとダメ。ただの剛だと野蛮なだけ。正見。
重只:欲がなくなると正見に近づくのでしょうか。
奏江:本当に仁があれば、舜帝のように、継母が異母弟を溺愛して舜を憎み、舜を亡き者にしようとしたが、それにも拘わらず舜はよく苦境に耐えて孝悌の道をつくし、ついに父母や弟を感化するまでに至るようになるのではないか。
北星:真理のフィルターの眼鏡にすれば良いと思うが、真理がわからないと出来ない。
凡知:自分を後にして、人のために一番でやって行けば、私欲は離れる事ができる。申棖は国民の代表だと思えばいい。
筑波:申棖を剛者とみる人は本質が分からない。
柴里:ビジネスマンで自分の慾の為に仕事をしていたが、それでは心が満たされなくなり、困っている人を助け、感謝される喜びから、考え方が変わる人もいた。
奏江:アメリカではセレブになるとボランティアに参加するが、それは心からのものなのだろうか。それとも自分が人の役に立っていることを実感したいという欲からなのだろうか。
重只:感謝される事を求めるのは欲では?欲とは無知でしょうか。
北星:その考えは間違いではないと思う。
凡知:自分が無知と知ればそれで無知ではなくなる。
奏江:無知者や心が汚い人は自分に智慧がないことや汚いものに気づくことができない。
筑波:欲の強い人で欲を満たすのが当然だと思う人もいる。
麦秋:剛者と仁者の違いは?
柴里:仁者は剛者であるが、剛者が仁者とはかぎらない。子路第十三〔二十七〕に「子曰く、剛毅朴訥は、仁に近し」というのがある。
奏江:欲に負けないという事ですね。
麦秋:また陽貨第十七〔八〕の最後には「剛を好みて学を好まざれば、其の蔽や狂なり」ともある。
奏江:自分の欲心に負けないことだね。最終的には自分自身との戦いだと思う。
凡知:剛であって朴訥。朴訥が大切と思う。
柴里:剛については、尚書(書経)の※
※皐陶謨は、行為に現れる九つの徳目を、舜帝の臣・
麦秋:維摩會の十徳目の愚直たれに近い。
凡知:清濁併せ呑むことも必要。
北星:清だけで生きるのはかなり厳しいことに感じる。
凡知:いつ呑み込むのかそのタイミングが大事。
奏江:学校教育で真理の道を教えていくことは出来るのか?自分のクラスの生徒が返却された答案を
北星:この世の中、清だけで生きていくには必ず戦いが生じる。
奏江:信じていれば必ず救われる!
凡知:剛者を通せば、その度合いに応じ必ず助けは現われる。
重只:孔子様は剛者でしょうか。
北星:信念を曲げないからそうだと思う。
重只:今の会社で清だけを貫き通そうとすると出世は諦めないといけないのか。
北星:清のみでも実績を上げれば問題ない。
筑波:正しいことをやっていれば、どこかで出世のようなことはついてくるもの。
凡知:自分なりの清というものを貫いてはどうでしょうか。それなりの結果が出る。
重只:孔子様は剛者をみず、とあるので、剛者はいないのでしょうか。
奏江:顔回は剛者ではないか?意志を貫き通して修行していた。
麦秋:顔回は自分の修行のみで、相手に対して主張していないのでないか。
北星:「吾未だ剛者を見ず」とは国を動かす人(政治家)に剛者がいないという意味だと感じる。
以上