東洋哲学研究会
2015.06.28
論語 公治長第五 15~17
論語勉強会議事録
2015年6月28日(日)14:30~16:30
開催場所:春秋館
議事内容:本日は、公治長第五〔一五〕~〔一七〕を学びました。
テキスト「論語の講義」諸橋轍次
論語 公冶長第五 15
子貢問曰、孔文子何以謂之文也。子曰、敏而好學、不恥下問。是以謂之文也。
議論
北星:文という名の由来は?
麦秋:文の
凡知:
北星:諡というのは誰かに与えて頂くもの?
凡知:国から贈られた。
北星:孔文子は死後に文というのを贈られたということですね。
瑠璃:生前の徳を称えられ、死後贈られる称号。
柴里:吉川幸次郎氏の論語(朝日文庫)によると文という諡の偉大さが実例をあげて紹介されている。司馬光に諡された
ただし、左伝には孔文子の良くない事が書かれてある。
瑠璃:良くない事2つ。同僚をそそのかして無理やり妻と離縁させ、その後釜に自分の娘を嫁がせたが、同僚が別の女を囲っていると知るや、今度は強引に娘を取り返しに行った。
麦秋:憲問第十四〔二十〕に孔子が衛の霊公の無道を論評した。これを聞いた季康子が、霊公がそれほど無道であるなら、どうして位を失わなかったのであろう、と尋ねた。これに対して孔子は、幸にして
柴里:(吉川幸次郎氏の論語本で、「左伝」によれば)2つ目の悪いことは、この人の未亡人は靈公の娘であり、夫の死後、美貌の
凡知:子貢が問うた。弘文子は世間では文と称せられているが、善からぬ事をしているのにどうして文という諡を得たのか?
それは諡法の「文」に合致しただけのことでしょう。という印象。
北星:「ああ、そうですか」としか思えないような感じの文章。
麦秋:例えば、政治家は政治家で一生懸命やればいい。その職務をもってのみ一流であれば、多少他が悪くともよいではないかと思う。
冥加:勉強が好きで目下の人にも不明を尋ねることができるのか。本当は下の人に問うたりはしない。
瑠璃:
麦秋:目上の人は絶対的敬わなければならない。孔子様の弟子には目上の人は誰もいない。一番近くても
冥加:70余歳の孔子様は7歳の子供に道を問うており凄い。孔子様ご一行が砂のお城に通りかかった話。老子様が7歳の子供に変化されて砂遊びをされていた。このご縁で道を授かる。
正志:孔子様が老子様より昔の方なのか?老子様の方が昔の気がする。
瑠璃:相まみえる時があってほしい。
凡知:老子様は紀元前六世紀前半と思う。孔子様は紀元前552年まれ。老子様が昔の方では?
瑠璃:孔子様は老子様が子供に変化されておられると見抜かれた。
冥加:そこに道があったから。
佑弥:きっとどこにも道はあると。
凡知:孔子様が35歳の時に礼を問う。
北星:不確かな史実ではあるが老子様と孔子様のおられた時代は重なっているという記述もある。
柴里:下問を恥じずの吉川幸次郎氏の解説。若者に娘を嫁がせた時にいさかいがあり(
北星:この世的地位は孔子様よりも上だったということか。
佑弥:一見くだらないと思われる会話の中にも道が現れているのでは。受け取り方の問題。
冥加:究極的には全て完成されている出来事。その本質が見えないだけで。本当は何もない事も目が開いていたら感受できる。敏にしては凄い情報量。普通の人は視聴覚でしか感じられないが、敏の人はその背景から感じ取れるのだろう。
麦秋:あえて鈍感に見ないようにする。
柴里:敏にして学を好みというのは両道で、鋭敏な人物は学問をしないでもわかるので学問をしたがらない。
冥加:学ぶことに鼻が利く。こういうふうに学ぼう。これを学ぶ目的はこう。出会ったものから学びとってしまうのが敏では。
凡知:ある程度わかるから勉強を常にするタイプではない。敏であるから学を好まない。
柴里:鋭敏な人物は自分の主観、直感に頼る。
凡知:天才肌であれば、ちまちま学問を好むことはしない。
柴里:ちまちまの量がある程度積もれば、(発酵して全体像が見えてきて)、感が鋭くなることはあると思う。
北星:「敏をして学を好む」という敏の意味は単純によく気がつくというだけでは?
冥加:敏はすばしっこいという意味。
北星:頭が良く、学問も好む。
瑠璃:子貢の問いかけだから、この回答になったのでは?他の門弟ならばこの答えにならなかったのかもしれない。子貢は目下の人に教えを請うのを恥としていたのかも。
冥加:子貢に持ち合わせて無い事を言っている可能性あり。
北星:子貢は優れた人。孔子様に聞かなくても、孔子様のこの答えは予測できたのではないか?
柴里:子貢は自信過剰だったから。子貢に、孔子様は下問恥じずを言いたかったのかも。
瑠璃:あの人はどうか?この人はどうか?と人の事をやたら聞いている子貢に、孔子様は、口は達者だが、実践を先にしなさいと対機説法をなさっていた。
麦秋:前回でも出た憲問十四〔三一〕に子貢はよく人を批判した。孔子様はこれを見て、私は自分のことで精一杯で、とても人様を批判している暇などないよと言われた。
北星:この文は、子貢に答えたところに意味があるのではないか?
正志:賢にして学を好む、明にして学を好む、こうした言い方なら判るのだけれど、敏にして学を好むという言い方には何か違和感があります。
北星:正志さんの言いたい事は賢より敏が下だという意味?敏はそんなに高い評価ではないということ?
正志:敏は素早さを表すのであって、学を好むの形容詞には馴染まない感じ。
柴里:学は調べものをしてからだから時間がかかる。
麦秋:敏の意味(新字源)①つとめる②慎む③とし。はやい。すばやい④さとい。悟りが早い。賢い⑤つまびらやか⑥足の親指
冥加:賢いではないか。
北星:そう思う。「論語の講義」諸橋轍次著の146頁に敏の意味あり。「敏は道を求めることに速やかに勉める」とある。
瑠璃:孔文子は目下の人の忠告や、忠言も聞いていた。
論語 公冶長第五 16
子謂子産。有君子之道四焉。其行己也恭。其事上也敬。其養民也惠。其使民也義。
議論
柴里:君子の要素が4つあり、それが子産に備わっていているという褒め言葉。「論語の講義」諸橋轍次著の憲問第十四〔一〇〕320頁にも、「
冥加:仁義礼智との繋がりはあるのか?
柴里:敬のうやまうが真心を
正志:君子たるの徳というよりは大夫の備えるべき徳を言っているような気がするのだけれど。
冥加:政治を治める人と学問を修める人の違いを述べている。
北星:政治を治める人で優れた人という意味の君子だとしても、仁者という意味あいの君子の要素を兼ね備えている。
柴里:君子は、優れた政治的支配者。優れた人物。ここでは両者をかねあわせた意味であろうと、吉川幸次郎氏の本にある。
北星:「君子」という言葉の意味するところが使い方によって違うことがある。
冥加:仁を目指している者を君子と言ったり。
瑠璃:君子の道とは、優れた政治家として道理にかなった道とある。
冥加:徳治政治を孔子様は目指す。だからこの要素が必要。
瑠璃:誰に向けて言っているのか?
凡知:子産は君子の4つの条件を備えているが、子産は君子か?何ものか?
冥加:名君の君子では?
北星:それだとしっくりくる。仁者という意味の君子よりしっくりくる。
凡知:仁者は気持ち、心だが、世の中をきっちり治めていくには、この子産のような、実際に実行し結果を出さなくてはいけない。
冥加:各、政治の目標、スローガンをわかりやすく書いた。こういう要素を備えていると
凡知:子産はそれを実践実行した。
冥加:漠然としたものではない、具体的なもので現した。
麦秋:大夫はあまり位は高くない。最初に王朝(周)があり、次に諸侯が国(魯、斉、晋等)を治め、その下が諸侯に仕える小領主で卿大夫となる。
凡知:君主(諸侯)に事え領地(禄高)を与えられた者。
瑠璃:子産が死んだ時、孔子様は泣かれた。
麦秋:子産は、孔子様より20歳先輩。
北星:名君だった。
冥加:20歳上だから孔子様の弟子ではない?
瑠璃:政に向けて、孔子様は子産を師とされていたかもしれない。士官を目指している門人達にこうしなさいとお示しになった。「人民を使役する場合は道にかなった使い方をする」の道にかなった使い方とはどういう意味だろうか?
正志:例えば農閑期の時に人民を使うとか?
瑠璃:税のとり方とか?
凡知:金持ちからお金を多く取り、貧しい人には少なく。
瑠璃:そうしないと人民達の信頼を得られない。
凡知:上下貴賤があるので、うまく統制していく。
瑠璃:それを道にかなった使い方と理解してよいのか?
凡知:役人で賄賂を使っているものには
北星:原文の「その民を使うや義」と言われて、当時の人は言葉の意味が分かったのか?
正志:その不公平がまかりとおっているから解るんじゃないかしら。
冥加:義だけを切り取ってしまうと、人を使うというより自分が義を通すの義。きっちり、命がけでするとか。
凡知:「論語新釈」宇野哲人著によると「子産は
北星:子産は、仁者としての君子か?
正志:これだけ備わっていてもまだ仁者には遠いのかしら?
麦秋:子産(前五八五年?~五二二年?)
麦秋:生まれた年が不明だから何とも言えないけど585年-522年=63歳くらいになる。
凡知:孔子様が30歳の時に亡くなられた。
論語 公冶長第五 17
子曰、晏平仲、善與人交。久而敬之。
子曰く、
議論
正志:解説には、長く交われば交わる程、人に尊敬されると書いてあるが、長く交わっても相手の粗をあげつらわず敬するみたいな意味にはなり得ないのかしら?
柴里:吉川幸次郎氏のには両方書いてある。長く交際すると相手の人が晏平仲を尊敬した、という
冥加:表裏一体で、人に対する本質的な尊敬の念が無いと成り立たない。自分の中に、どのような人にも敬意をはらっていれば、自分に対して厳しくもあり、自分に厳しくないと尊敬されない。
瑠璃:長く交わると嫌な所が沢山見えてくる。
柴里:夫婦を長くやっていると。
瑠璃:慣れ親しみ過ぎて、敬う心を失うが現実。人に厳しく、自分に甘い人は尊敬されない。
凡知:晏平仲は、三代の君主に忠臣で、人付き合いが上手だった。それで人に尊敬された。孔子様は、彼は能く出来た人物であることを認めているが、それを讃えたと「論語の講義」諸橋轍次著の注釈にあるが疑問。
瑠璃:欠点が晏平仲にはなかったという解説もある。
麦秋:微子第十八〔三〕
「斉の
瑠璃:仕官できる機会がなくなっても、孔子様は晏平仲に対し尊敬の念を持っており、自分に批判的であっても良い人は良いと尊敬し、評価されている。
冥加:たとえ仁者でなくても、目の見えない人にとって、条件が整えば尊敬される。35歳、孔子様が迷っている時。
正志:将に富国強兵が必要な時に、道を説く方に来ていただいても。
冥加:孔子様は当時の政治の目的に適わなかった?
瑠璃:孔子様のような人が士官したら、自分たちの立場が危うくなると危惧したのかも。それを見込んで難しいとみなしたのでは?
北星:それをみこんでなら晏平仲もなかなかの人。
冥加:晏平仲は皆の利益を代表したから尊敬されたのかも。形になる利益供与をし続けたのかも。
凡知:そう解釈すると、世渡り上手であるが、人格者という面ではそうではない。
佑弥:どのような人と、どのような接し方をしたのか?仁者は少ない。その人を思い苦言や厳しい事を言えば、一般の人からは恨まれたりする。仁者であっても尊敬されない場合もある。
冥加:ものが見えていたら孔子様を使ったのでは? リスペクトはあったのか?
瑠璃:士官の道を妨げられても、孔子様は公明正大に人物を評している。解説にもあるが、ここが論語の中に編纂されたポイントでもあるように思う。孔子様は(ご自身に不利となっても)正しく見て評価されている。
北星:晏平仲が本当に優れた人物なら孔子様を推したのでは?晏平仲は単に交際がうまかったという事。
麦秋:晏平仲が孔子様をとらなかった理由が「史記世家」(中)司馬 遷著、小川 環樹(翻訳)の孔子世家第十七291頁に書かれてある。
「いったい儒者は口さきがうまくて、
民の風俗をそこなうものであります。弁舌でもって〔諸国を〕まわり歩き、財物を借りたりしますので、国を治めさせるには不むきです。〔文王や周公の如き〕大賢人が没せられてからは、周の王室もすっかり衰え、礼儀と音楽の規範も欠けうせました。今や孔子が
柴里:(「孔子」金谷治著、講談社学術文庫、349頁)「
凡知:孔子様は徳治を願って主義を通され理想ではあるが、現実の政治を決断実行するには不向きで柔軟に対応できないと晏平仲は判断した。
冥加:孔子様を硬直した考えの持ち主としてとらえていた。
北星:晏平仲は現実的。
冥加:晏平仲は孔子様が現実的でないと思っていた?
佑弥:晏平仲は自分のわかる範疇でしか、孔子様がわからず、また政治についても同様であった。孔子様を理解できていたら、(その政治の仕方を把握できていたら)違う答えとなったのではないか。
以上