東洋哲学研究会
2015.04.19
論語 公冶長第五 1・2
論語勉強会議事録
2015年04月19日(日)16:00~18:00
開催場所:春秋館
議事内容:本日は、公冶長第五[一]、[二]を学びました。
テキスト「論語の講義」諸橋轍次
論語 公冶長第五 1
子謂公冶長。可妻也。雖在縲紲之中、非其罪也。以其子妻之。
議論
奏江:世間の評価に左右されない誠のある生き方が求められているのか。
筑波:罪がないにもかかわらず罪ありと判断してしまう人たちと孔子様の判断の違いの大きさが衝撃的です。ソクラテスの処刑、イエス様の十字架など連想が飛びました。
瑠璃:投獄された理由は、公冶長が鳥語を理解できること(言い伝え)から。それがもとで冤罪になった。
麦秋:孔子様は一男一女。孔子様自身は姉が九名。腹違いの兄が一人。
瑠璃:孔子様は公冶長を憐れんでいた。幸せになってほしいと思って自分の娘を嫁がせた。因縁とはいえ、冤罪の罪を着せられた公冶長への深い思いやりを感じる。 他の本での解釈説明[一]と[二]で一つとの解釈がある。孔子様は人となりを正しく見て、正しい判断で、相応しい伴侶としてご自分の娘を嫁がせた。
婚姻は縁であるが、孔子様は縁があることも見通されていたのではないか。
麦秋:その人の表面ではなく中身を以て判断する事がこの篇の本質だと思う。
重只:冤罪だったという事ですか?
北星:冤罪だったとしても冤罪を被ってしまう因縁がある。
奏江:本人の罪ではなかったとはいえ、罪人として投獄された人を自分の娘の婿に迎えるという孔子様には勇気がおありになったのではないか。そういった問題がある中でも嫁がせたという事では勇気を感じる。
筑波:「世間の判断に惑わされない在り方」強さと素直さを感じました。
北星:孔子様自身の門人だから信用しているのだと思う。
佑弥:冤罪であれ、世間の白い目で、嫁が来ないと考え自分の娘を嫁がせたというのもあったのでは。勿論人物を評価してだが。
奏江:たとえ濡れ衣をきせられるようなことがあっても求道から心が離れることがない。信念が揺らぐことがない。孔子様もご自分の教えに自信を持っておられた。公治長を弟子として信頼していた。
北星:世間の考えとは違い、孔子様にとってご自身の判断はごく当たり前の事だったのでは。
麦秋:娘もえらい。
筑波:子(娘)はどう思っているのだろうか。当時のあるいは儒教のしきたりなども気になりました。
北星:その後この夫婦が幸せになったのか後日談があれば知りたい気もする。
凡知:孔子様は公冶長の事をよく知っている。自分の娘の事もよく知っているから両方にとって道を求める。
正志:[一]も[二]も共に一見すると「それでどうしたの?」みたいな感想しか持てない内容です。 孔子様の言わんとされた事は、権力が誤っている時、つまり道有らざる時、公治長は罪を問われた(つまり道有らざるを肯んじなかった)、南容はそうした時でも其の分・振る舞いを弁えていた、そうした人物である、と言うことを言われたのではないでしょうか。
佑弥:[一]と[二]は、例として(その人となりを通して)は違う。
冥加:[二]は国に道が行なわれていない時に、生き残る賢い人ということ。
瑠璃:誤った人物評価・噂を、その真偽を疑うことなく信じるのが小人。君子は正しく見る。
奏江:誠があったら濡れ衣が着せられない?
佑弥:[一]の例は誠があったからお婆さんを放っておけなかったため、冤罪になった。これとは別に冤罪になる因縁が過去にあったのだが。
重只:罪はその人そのものではないという意味かと思う。冤罪ではなく、罪人であったら孔子様は嫁に行かせなかったのか?(罪を憎んで人を憎まずという意味合いも含まれているのかなと思いました)
奏江:指導者の立場にありながら、自分の部下など、人物を正しく評価できない指導者も多いが、孔子様は世間の評価に惑わされず、人物を正しく評価されている。
冥加:孔子様は正見された。
佑弥:冤罪とはいえ罪びとの生活を送ったというマイナスの心の傷としてしまいがちな事を孔子様の言動により希望を見出された。公治長には孔子様の言動があったが、そのような孔子様の言動を他人からしてもらうのではなく自分自身の中で、できるとよい。揺ぎ無いもの。
筑波:冤罪にも関わらず(孔子様のところで学びながら、前向きに)生きていくところが、そもそも素晴らしい人物と評されるところ。
冥加:正しいことが正しいように行われた。
凡知:公冶長の徳を認め、励ますため、孔子様の娘を妻せた。
柴里:徳は孤ならず。そのことを自ら示されるため救われた面もあったのでは。
瑠璃:ご自分の娘を嫁がせることによって、公冶長の無罪を世間に示されたのかもしれない。
論語 公冶長第五2
子謂南容。邦有道、不廃。邦無道、免於刑戮。以其兄之子妻之。
議論
凡知:[一]、[二]について、朱注には「或る人曰く、公冶長の賢は、南容に及ばず。故に聖人其の子を以て長に妻し、
而して兄の子を以て容に妻す。蓋し兄に厚くして己に薄くするなりと。・・・」
奏江:治世において求められる能力とは何か。 罪を犯していないのに、濡れ衣をきせられる。
悪意のあるものと縁が出来ないようにする。誠があるかどうかが問われている。
筑波:どこで命をかけるか?乱世では生き延びることが重要?
冥加:道に沿って生きるとこうなるのではないか。
北星:この文のようになったのは徳があったから考えずともそうなっていったのか?それとも考えて能動的にそうしたのか?
冥加:矩を超えずではないから、考えて行動している。
麦秋:約を持っていたのではないか。
瑠璃:白圭とは、詩経・大雅抑篇の一節で「美しい玉は欠けても磨けば元通りになるが、人の失言は一度口から出たら取り返しがつかない」という意味ということ。南容は機を見て、身を処する能力に長けていた。そこには徳もあった。
北星:南容には約と徳の両方があった。
柴里:南容は「言葉は慎むべきである」という白圭の句をいつも繰り返して自戒していた。
奏江:言葉の影響力は本当に大きく恐ろしいと思った。
北星:言葉を慎むのは処世術ではないのか?
朝顔:言葉を慎むのは、処世術ではないと思う。
瑠璃:この時代は我々が思う以上の厳しい戦国時代。不用意な一言で命取りになってしまう。その家族でさえ、一家皆殺しも有り得た。生きていくためは、言葉に慎重にならざるを得なかったのかもしれない。
朝顔:リンゴが好きだけどミカンは嫌いと言うのは良いけど、ミカンは間違っているけどリンゴは正しいといった判断を早計に口にすべきではない。
奏江:徳のある人の所に道が現れる。徳のある人は道とともに生きておられる。
正志:南容には支配欲、功名心、物欲、権勢欲、そうした気持ちが無いものだから、道無き時にあっても対応が自ずと正確で、それ故に罪を問われることが無い、そうした意かしら。
重只:南容の何が優れているから孔子様はご評価されたのか?この訓示で孔子様が言われたい事は何だろう。
奏江:南容は、自分の権勢欲などからではなく、本能的に分別のあるご発言をされていた。発せられる言葉には誠の思いがあった。だから濡れ衣を着せられるようなことがなかった。そのようなことと関係ができるような因縁をお持ちではない徳者であった。
冥加:機を見るに敏だったのではないか。
茶色:自分で選んだのか?言葉を慎んでいたから道ありの時は活躍できるし、言葉を慎んでいたから道の無いときは罪に問われない。どんな時も正しい事を行なっていたから、どんな時も正しい行為をすることができるのではないか。
麦秋:他の篇は仁や徳を前面に持ってきているのに、この篇にはそれはうたわれていないので少し異質な感じで、処世術のような気がする。あまり論語に出てきていない。
北星:徳があると自然に生きていてもこのようになると考えるが。
冥加:道を切り開くというより、受け身な生き方に思える。
以上